ポリコレ的な発想が作品を面白くした1600年代の例ふたつ

ポリコレ的な発想が作品を面白くした、というより不朽の名作にした古い例として、1600年代の英国の作家アフラ・ベーン作『オルノーコ』や『アブデルアーザー※』を思い出したので書く。

※中高生向けの人気の管弦楽/吹奏楽作品にもなっているため、日本では「アブデラザール」とも読まれる模様

「植民地支配を批判的に書いた英文学のヒット作なんてないだろう」

だったか、いかにもアンチフェミ・アンド・反ポリコレさんらしい、ニセ科学と歴史修正主義と自分中心の天動説的な妄想の三重苦なご意見を先日見かけた。

いやいや中世でも大航海時代でも各国に昔からあるさ。

世界史年表に出ている名著は大半がそんな感じじゃなかろうか。

そして世界史をざっと見ればわかる通り、歴史は「勝者による捏造」ではない。通例、歴史は弱者や弱小や新興勢力が書きたがるものだ。

古代オリエント各国や古代ローマから近現代の「英/米の平和」まで、勝者や大国は公文書を安定的かつ膨大に保存可能なので歴史をあまり重んじない。

一般向けの歴史書は洋の東西を問わず敗北者か弱小/新興のお山の大将が自らへの権威付けに書くケースが多く、本邦がたいていこっちってだけだ。

そうして心ある人類が反省し続けても世界はこのざまだ、反省しなかったらそら恐ろしいわい。

ともあれ今回の作品を思い出したのは、偶然耳にしたゴキゲンなエールハウスセッション版Abdelazerのおかげです。良いですねえこれ。https://open.spotify.com/album/0kBfrB7VjCBLsqz3aLMc6y?si=bXgr3p-YSaWnol7DgsJ2Hg

これから説明する1600年代の作品のうち、『オルノーコ』は夏目漱石の『三四郎』でも触れられている通り、アフリカ黒人の若い王族が奴隷として売られる短編小説だ。

『アブデルアーザー』は白人キリスト教徒に囚われ、親を殺されたイスラム教徒の青年による復讐劇である。戯曲にパーセルが曲を付したものや、さらにブリテンが編曲したものを、日本でもしばしば耳にする。

『オルノーコ、あるいは奴隷の王族(1688)』

舞台は1600年代半ば、白人の奴隷もまだまだ世界各地に出回っている時代。

主人公であるアフリカの黒人オルノーコも地元では奴隷所有者で、フランス人奴隷からフランス語と英語を学んで育った文武両道の王族だ。

その彼が悪い英国人船長に騙されて奴隷となり、はるばる中米の英国植民地へ送られ、奴隷虐待を見聞し、同じく奴隷とされて流れてきた妻と再会する。

植民地のふつうの英国人夫婦と気が合い、友情を築いたりもする。みんなで読書会をしたり、みんなでデンキウナギを捕まえに行ったり。

そしてやがて主人公夫婦が「産まれる子どものためにも自由と帰国を…」と望み始めたところへ最悪級な英国人リーダーたちが現れ、最悪の悲劇が起きる。

という話だ。

語り手は主人公夫婦と親交のあった白人夫婦の妻のほうで、端的に言えば、元々新世界で奴隷を使って一山当てようとしていたキャラだ。そんな人から見てでさえ理不尽な現実が語られる。

つまりアフリカから来た友人夫婦ふたりの、もはや神話の神に見えるほど美しい生き様の思い出と、同胞の人間と思えない悪行を歴史に残す、というていで書かれている。


夏目漱石『三四郎』では「黒んぼ」の王族が難儀する話、とかひでえ言い方だが。誰だよ日本に人種差別がないと言ったやつは。

ともあれ漱石の当時でも名作だったし、やがて黒人側の作家であるヘイリー『ルーツ(1976)』の大ヒットをきっかけに、かつて反人種差別の名作とされたストウ夫人『アンクルトムの小屋(1852)』などへの視線が厳しくなった1970年代から再評価されて今に至る。

作者と政治的に同じ王党派の、実在の人々の残虐行為を容赦なく描くリアルさから「作者の目撃した史実では」との説もあるが、なぜかスリナムの農場風景に羊が描き込まれていたりするので(史実では気候が羊飼育に合わず、北米から羊肉を輸入していた地域だった)、単に情報収集で書かれたともされる。


また当時の証言によると来客中もペンを手離さずに一気呵成に書きあげたらしく「これほどの作家がこれほどの事件を1660年代に目撃して1688年まで書かずに耐えられるのか」という否定もある。

日本に井原西鶴がいたような時代からこういう小説がベストセラーになるほど植民地支配や奴隷制が否定的に見られていたのに、実際に廃止されるまで、長い歳月がかかったわけだ。

余談『嵐が丘』

ちなみにこの約100年後、ようやく実現した英国の奴隷貿易廃止の直前と直後を背景とする小説に、世界3大悲劇とも呼ばれるエミリ・ブロンテ『嵐が丘』がある。

まだ幼かった主人公少年が、毛色も言葉も違うのにそのへんにいた理由。

大旦那が彼を拾って実の子らと平等に大切に育てた理由。

大旦那の死後に虐待された理由。

家出してたった3年で大金を稼いで復讐を開始できた理由。

物語の要所要所で一見意味もなく年号(?)が出てくる理由。

どれも時代背景が奴隷貿易廃止直前と直後だからだ。

閑話休題。さて「オルノーコ」は日本では岩波書店から邦訳が出ているが、

『オルノーコ 美しき浮気女』

という1980年代臭丸出しのすごい副題がついた。

原題は『Oroonoko, or Royal Slave (オルノーコ、または 王族出の奴隷)』だ。

主人公オルノーコは男性である。

登場人物で「美しき女」といえばオルノーコの妻イモインダだが、彼女は最強クラスの戦士であり、知性にも忠誠心にも自制心にも長け、浮気とは程遠い。

一応もとは庶民なので、オルノーコの祖父(王様)に目をつけられ策略で嫁にされかけたことはあるが、普通に逃げた。

奴隷として南米に売られてからも白人男に百人くらいに手を出されかけたが、手を出しにくい人なのでやはり無事。

そうやって色々な男の手をはねのけて一見平穏に夫オロノーコと暮らし続けていることも80年代ならば「浮気女」と呼ばれ得たのだ。

19-20世紀的なセンスでは、女が一方的にストーカー男に追われて殺される話ですら「悪女物」だ。男は完璧なはずなので女が悪い、という発想だ

残念ながら、世界中どこでも、我が国の神道や仏教を含め、「人は誰もが素晴らしい」という一見ナイスな発想は

我々はみんな完璧なのだから、女や異民族が悪い」という責任転嫁

に容易に変わる。「政治の混乱と社会の腐敗は女や異民族のせいだ」と。

さて、ベーンのもう一つの名作『アブデルアーザー(1676)』はそういう「異民族と女が悪い」的な既存の物語『ラスツ・ドミニオン』を翻案したものだ。

べーンのポリコレ的な大改造のおかげで、今に残る名作となった。
これにパーセルが音楽を付したものは、ブリテンの編曲版を含め、日本でもよく耳にする。

『ラスツ・ドミニオン』とその翻案『アブデルアーザー』

反ポリコレ的な『ラスツ・ドミニオン』は、ポリコレ的な『アブデルアーザー』と大枠は同じだ。

《共通のあらすじ》

「イスラム教徒の若者がスペイン王に親を殺され、捕虜となって屈辱を受け、復讐の鬼と化し、人々を扇動し、王妃を誘惑し、王を暗殺し、王位簒奪を企てる」

これならいくらでも良い話が書けそうなのに、

『ラスツ・ドミニオン』はポリコレ性皆無だったのでこんな感じ。

・善人は白人キリスト教徒

・悪人は有色人種でイスラム教徒

・女キャラは意志薄弱


なので

「悪の有色人種の異教徒どもが、意志薄弱な女どもをたぶらかし、国王暗殺という国難を招きました。そこで俺たち善なる白人キリスト教徒男性様が奮起して、女と異教徒の悪を一掃し、有色人種どもを追放しました」

ってな感じになっている。

いまでいうと悪い方向にとんがったオタクコンテンツに近く、そういう戯画化と痛快さを求めるニーズもあるだろうが見るに耐えない。これが共感性羞恥ってやつでしょうか。

1600年代の人間から見ても台無しだったのだろう。アフラ・ベーンはこれを大幅に改めて後世に残るヒット作にした。

今でいうとポリコレ的な『アブデルアーザー』の翻案


《キャラ》

・アブデルアーザーは悪人のままだが凶行に至る心の動きが丁寧に書き込まれた

・最も凶悪な悪役は白人キリスト教徒に

・最も善良な善人役は有色人種イスラム教徒に

・女性キャラには各人の考えや意志があり、王妃は特に強キャラ。

《描かれ方》
レコンキスタ後のスペイン。王は日頃からイスラム教徒を虐待しており、ある日、北アフリカの城塞都市フェズの王を殺害する暴挙に出ました。

フェズの王*の幼い遺児アブデルアーザーはスペイン王家に引き取られ、一見可愛がられて育ちつつも**、父の敵討ちを計画するようになりました。

*今では世界遺産である迷宮都市フェズは、かつてスペインに最後まで残ったナスル朝最後の王(-1492)の亡命先でもあった。

**日本の音楽の資料だと主人公を美少女とする解説をよく見かけますが男です。

美しく育ったアブデルアーザーは、父の敵討ちに向けてまず王妃を篭絡しようとしました。

が、ひたすら王妃に便利な官僚として使われるだけでした。

密会を逢引だと思ったのはアブデルアーザーだけで、王妃は夜な夜な大量の文書を持ち込んで国政を学び、夜な夜な彼を仮想敵にして議会論戦の練習に勤しみ、きっかり一時間後に放り出します。それが王妃の仕事ですし、結局王妃もよそ者ですから人知れず勉強したいよね。良い人だね。

そんな王妃に仕事能力を褒められて誇りを感じたりもしましたが、半年くらい経つと「もしやボクは搾取されているのでは?」と思い始めます。

復讐心が消えかけて所帯をもったりしますが、普通の善良な女性と暮らした結果、自分を極悪人と確信してしまいます。しかもエゴが嫌なほうに強化されました。

彼はためらいなく王を殺し、人々を利用し粛清し、王位簒奪を目指す悪鬼と化しました。

アブデルアーザーを止めようとする善のキャラたちは、主に同じ有色人種のイスラム教徒です。

しかしアブデルアーザーを超える最悪級の酷い悪党が潜んでいました。白人キリスト教徒の、とあるお方です。

みんなは力を合わせてどうにかアブデルアーザーを倒しましたが、新しい王が全イスラム教徒に国外追放を命じてバッドエンド。


細かいとこ間違ってるかもしれませんがそういう話。
今でいうとポリコレと多様性。
こっちのほうが面白そうですね。


そんなこんなでいつの時代のどの人種や宗教の人にも読みやすくなったベーン版を時の宮廷作曲家パーセルが良しとし、音楽をつけて、今まで語り継がれている…というか、パーセル共々近代になってリバイバルを果たしたわけです。

ちなみにアフラ・ベーンは女性。

***「Lust's Dominion」が現代風アレンジで上演されることもある模様



※キリスト教やイスラムでは人はみな平等なので差別とは相容れないが、聖書によくある追放された人々などの伝説を根拠に、遠い地の人が忌み嫌われることもよくあった。