会いたくなったら、またおいで
浅瀬で不規則にきこえる波の音が好きだ。
海は責めない。波のくだける音は皮膚の表面の毛羽立ちをなめし、雫はこわばった身体を音もなく包む。
しんどいときに海に行きたくなるとはかぎらない。
約10年前に越してきた今の土地は、海まで歩いて15分。
最近行ってないなとふと思って足が向く。わたしには願ったり叶ったりの場所だ。
映画『海を飛ぶ夢』と業田義家と
2005年公開、ハビエル・バルデム主演、アレハンドロ・アメナーバル監督。舞台はスペイン。
二十歳の頃に観た映画だが、実話を基にしていると知り、すぐに主人公の書いた詩集を読んだ。
著者の写真は白黒ながら、左右の目の色が異なるオッドアイだろうか。映画のタイトルのごとく海のような瞳の持ち主だった。
「どうして僕だけが、自分の生に満足できないんだ」
この台詞が、今もわたしの身体の底に錨となって沈んだままになっている。
どんなに楽しい計画をたてようと、好いている相手と過ごそうと、この肉体をもって生まれてきたことがつらいのは変わらなかった。
映画を観た当時、五体満足でかつ自由のきく我が身をいかに役立たせるかに躍起になった。
行きたいと思った場所に行き、職を探し、この生を最大限活かすにはどうしたらよいか。そればかり考えていた。
この身体を活かす道が見つかったと思っては閉ざされ、一喜一憂した時期だ。
映画の原題は”Mar Adentro”、日本語では「内なる海」。
内なる海には主人公ラモンの自由が在り、彼は「どんなに望んでも手にはいらない」と断言する。
首から下が付随となり、物理的そして精神の自由を喪ったと訴えるラモンは、彼の望む自由を得るべく文字通り命を賭ける。
彼の主張と真っ向から対する女性が、彼に言い放つ。
何年も経ってから、これとよく似た台詞に漫画で出合った。
わたしは未だに、この台詞のようには思えていない。
肉体を持ったことのほうに価値があるとも、意味があるとも信じられていない。
肉体を持ったことで得た不自由に、いまも納得がいかない。
その頑固さに我ながら呆れている。
映画で最後の旅路に向かう主人公ラモンが窓から見る景色は、生そのものだ。
そこで流れる音楽が、ラモンの渇望する「生がほどけて宙を舞う自由」に重なる。
海と雨はよく似ている。どちらも、母なるものの匂いがする。
どんな思いを携えて行っても、帰り際には「またおいで」と背中をひと撫でして見送ってくれる。
わたしは海に甘えるだけ甘えて、なにも返せぬままになっている。
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