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押さない、駆けない、走らない(PTAの話)
次年度役員決めの季節がやってきた。
子どもの在園中に一度はしようと思って引き受けた今年度、
ほぼほぼ終りが見えてきた。
あらためて考える
片手片足を突っ込んでみて、役員業務が巷でなぜこんなに恐れられているのか、
あらためて考えた。
こんなにも忌み嫌われるというか、
まるでラスボスが現れたかのような戦々恐々っぷりは、
ちょっとした前夜祭というかもはや余興の域だ。
1、無報酬
2、なのに時間を取られる
3、何をするのかいまいち不明
4、コロナ5類で行事の完全復活
1、2はそのまんま。
時間は取られるが見返り(報酬)はなし。完全なボランティア。
実際に関わってみると、行事当日は言わずもがな、
打ち合せにリハーサル、振り返りという名の反省会、
事後の片付けなどなど行事前にとくにグイグイ喰い込んでくる。
でも準備9割って、PTAにかぎらずイベントの要という気がする。
予想の斜め上の出来事が起こるのも含めて、
シミュレーションには想像力を行き渡らせる。
それが準備の醍醐味というか腕の鳴らし所ではないか。
あれ、何の話か分からんくなってきたぞ。
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閑話休題。
3(”何をするのかいまいち不明”)は、未知に足を踏み入れるのって怖いねというお話。
時間をとられると伝え聞いていれば尚のこと、
取っ掛かりのないものに素手を突っ込むのはこわい。
年度終わりの活動報告書は、会費の使い道や募金先などあくまで数字が主役。
具体的な行動記録や個々のどんな感情が動いたかといった生々しさはない。
それだと「夏休みの思い出」みたいな文集になってしまう。
趣旨が変わってしまうから仕方がないんだけど、
役員とそうでないひととの架け橋になる存在があると、
この恐怖はすこしは薄れるのかな。
ま、その存在が必要とされているかはまた別の話。
コロナで保護者会もなし、行事も縮小か未開催、
保護者と挨拶を交わす機会もここ数年本当になかった。
なので余計にベールに包まれている。
誇れることではないが、わたしが昨年度のクラス役員のお名前を
知ったのがつい先日だ。
ここ3年ほどこんな風だったので、
4つ目の理由“コロナ5類で行事の完全復活”が出てくるのだろう。
コロナ前にもどったときの行事の塩梅を、
穴ぐらのなかから皆そぉっと見極めている。
コロナ前に戻ると言えど意識の隅っこからコロナが落っこちて消えるわけではない。
実際はtry and learn、一進一退だと思う。
この「ちょこっと様子見」の意識が磁場のように目には見えないけれど強力で、
揺さぶられる最初の年を、固唾を飲んで外野から見守りたいひとが
大半なんだろうな。
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ほんで?
実際一年務めてみて思うのは、
予想をはるっっっかに上回るフットワークの軽さが必要だった。(嘆息)
一年という持久戦の要所要所で、瞬発力と柔軟性が要求される。
それでいて見通しは楽観的、達観していないと倒れてしまう。
というか2ヶ月ほど廃人のようになっていた。
打ち合せに行けなかった日もある。
完全に許容量を越えた。会長でもないのに。(失笑)
実際、会長にでも就こうものなら行事ごとに担当決め&割り振り、
園との連携連絡、毎月の会議の準備と常時稼働状態。
もはや園に就職というか、“試用期間(1年)”の心持ちでないと務まらないと思う。
子どもに会える
わが子の場合、「明日、役員のおしごとで幼稚園にいくよ」
とつたえると、毎回「やった!」と喜んでいた。
園でもわたしに会えるのがうれしかったらしい。
文字に起こすと込み上げるものがあるが、
実際は朝送り出してから自分が出るまでの算段、
役員会が終わってから子どもの迎えまでの算段、
自分の疲労と夕飯の献立、掃除洗濯と天秤にかけるものが多すぎて、
子どもの健気さなど眼中になかった。すまぬ。
役員の立ち位置はあくまで園のサポート。
だからどの活動も回り回って「子どもが園でたのしく過ごせるか」に還元される。
そのサポートにどこまで手を入れるかというのは会長次第でもあり、
園の方針、コロナ渦といった社会情勢にも左右される。
固定枠はあれど何ひとつ動かないわけでもない。
曖昧っちゃ曖昧。要は組織も生き物なのだ。
外的環境の影響を受けずにはおられないし、
目には見えぬ矜持と言おうか核と言おうか、意地のようなものだってある。
あれれ、また何の話か分からなくなってきた。
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読むことと動くこと
次年度の役員決めに難航していると風のうわさが届いた。
今年度を知るひとが欲しいという理由も兼ね、
会長自ら既存のメンバーに声をかけていくらしい。
一年を共にすると、働きぶりや人となりは自然と露わになる。
「実務が抜群にできるひと」
「気働きが半端ないひと」
あとはもう
「よく動くひと」
に必然的にお声がかかるのだろう。
わたし自身は、この「動く」の二文字にとことん振り回された一年だった。
まあ自分で自分を振り回したんだけれどね。
動くには、“現状のその先”まで読めていないと動けない。
が、場を読むことと行動に移すことは別である。
これを解っていなかった。
「このあとはこうなるな」
「これとこれとこれの可能性があるな」
その読みが浮かんだが最後、わたしは動かずにはおられなかった。
動かないことを良しとせず、罪悪感からなのか居ても立っても居られず、
動かないという選択肢が見当たらなかった。
現実には、読めるからこそ敢えて動かないひとも居るわけで、
そっと舞台から降りるするひとだっている。
そもそも、動く役を引き受けなくても良いのだ。
自分の許容量と、集団での役割とのバランスを取る。
「自分で自分に本音を言う」
「自分の居場所を、まずは自分のなかに作る」
という精神的な護身術を、上の2冊をはじめHSPやエンパスの本で学んだ。
繊細であろうがなかろうが、
生きるうえでわたしには必要な術がそこには在った。
押さない、駆けない、走らない
「どう在りたいか」
それを他ならぬ自分が決めるのだ。
動きにも、自由裁量の域が存在するということ。
動き方にも濃淡があり、そのレベルは自分で決めて良い。
一定でなくとも、自分の体調に合せて動く度合を上げ下げしても良い。
それがこの一年、いや数ヶ月間廃人になったあとに得た、
かけがえのない気づきであり、身体の贈りものだった。
読みが浮かんだら、三回に一回は立ち止まって確認する。
自分を背中から突き飛ばすような真似はしない。
あとで寝込むほど自分を追い込むような駆けっぷりはやめる。
走るのが健康に良いのはわかるけれど、ほどほどに。
押さない、駆けない、走らない
この標語をかんがえたひと、ほんと天才よ。
これぞ自分からの避難訓練。
天災から身を護る術が、そのまま自分の内側をも護るのだ。
宵のおまけ
最初、タイトルを「宵っ張りのPTA」としてたのだけれど、
役員会の日はたいてい子どもと寝落ちしてた。
最後、今年度役員を務めた方々に心からの労いを。
一年間おつかれさまでした。
そしておやすみなさい。