ファリーニャ試訳 第一章
この本をミミに
「私はすぐにでも退場しなければならないでしょう…」
ベンジャミン・フランクリン
ジョージ・ワシントンへの手紙のなかで
1780年、3月5日
第一章
ノーソスが家を見つける。フィッツゴアとヘッフォランが幽霊を見る。栄養素を確保するための計画が浮かぶ。レジの女の人がメキシコの王に会う。(訳注:このように目次には章ごとに短いあらすじが記されている)
またしてもアテネへ。
若きノーソス・パパドポウリス(Gnossos Papadopoulis)、毛むくじゃらのくまのプーさんにして炎の守り手は、大いなる荒地のなかのアスファルトの海を渡って帰航した。おお、ハイウェイ40よ、けっして曲がらないハイウェイ66よ、俺はいま氷河に侵食された谷間へと帰郷した、指のかたちの湖たち、ウェストチェスターとシェイカーハイツの黄金の女たちの所在地へ。嘘でギトギトの俺を見よ、巨大なブーツを踏み鳴らし、企みで頭がいっぱいの俺を。
帰還したアテネではペネロペが有頂天で不義密通の快楽のうちに寝そべっている、テレマコスは父親を憎んでいて股のあいだを蹴りあげようと狙っている、そして旧き友アンガスは、疲れきって戻ってきた主人を駆け足で迎えるがその牙を主人が引きずる足に食い込ませる、すでに野生化してしまっていて口から泡も吹いていて、狂犬病の恐怖を感染させる。おお、ウェルカム、
帰郷したのは一人の狂人、
夢にまで見たホーム
そしてこのサテュロスは
思い立ったが吉日とホームへ
for home is the madman,
home from his dreams
and the satyr
home to make hay,
日が照っていようが隠れていようが構うものか、というのも地層圧と断層によってあの丘ばかりの土地はやたらと雨が降るからだ。(訳注:make hay while the sun shines=日が照っているうちに乾し草を作れ=チャンスを逃すな、思い立ったが吉日、という慣用句を踏まえている)
バタバタと一番険しい坂を上っていく、石炭の燃え殻で汚くなった雪を靴の裏でかき分けながら。彼は鹿肉と兎肉の匂いがする。彼の息は東洋の酒のアニスの匂いがする。まだ誰も彼を見ていない(あるいはもし見ていたとしてもあり得ない光景を受け入れる素地がない、彼は噂ではすでに死んだことになっているのだ、ブライトエンジェル・トレイルの底に仰向けになって苦痛に身をよじり、ワイルドなグランドキャニオン産の小型のロバに目玉をえぐり出されて。あるいは刺青をしたパチューコと揉めてしまい、王水に浸した千本のタバコで夜のニューメキシコで燃やされて死んだ。サンフランシスコ湾ではサメに食われてしまい、片足だけがヴェニス・ウェストに流れ着いた。G・アロンソ・ウフ(G. Alonso Oeuf)はアディロンダック山地で彼を青ざめた氷漬けに(has him frozen blue)した)彼はよろよろとその湖からいま戻ったのだ(柔らかいトウヒの枝の上に座っているところを見つけられたのだった、足は蓮華座に組まれていて、第三の目があるべき場所にはミステリアスなカーストマーク、真っ裸で勃起中、そんなところを冬のバードウォッチングにお出かけのセント・リージス・フォールズD.A.R.(訳注:アメリカの革命の娘たち=Daughters of the American Revolutionは米国独立戦争当時の精神を継承しようとする女性団体。1890年結成)に発見されたのだ)。
俺は目に見えない(invisible)、彼はしばしばそう考える。そして俺は「免除」されている(And Exempt.)。免責が俺に許可されているのは、俺がクールさを失わないからだ。俺は極性を意志によって選択できる、なぜならイオン化していないし原子価も持ち合わせていないからだ。俺のことを不活性で特徴がないと呼ぶなら呼べばいい、だが気をつけろ、俺はシャドウだ、人の心を自由に曇らせられる。人の心の中にどんな悪が潜んでいるか、誰にわかると言うのだ?(Who knows what evil lurks in the hearts of men?=ラジオドラマThe Shadowの決め台詞)俺はドラキュラだ、俺の目を覗き込め。
壁が黄緑に塗られたグレイハウンドバスの停留所から、足を引きずってアカデミア・アベニューという味気ない名の通りを行く。彼はパルカ(parka)にぴったりくるまっている(ライナスのタオルケットのようなものだ、森の暖かさ、彼の持ち運びできる子宮)。(訳注:ライナスはスヌーピーに出てくる子どもで、愛用のタオルケットがないと不安になってしまう)リュックサックはびっしり物がつまっている、それは彼が人生において唯一所持していて必要とするものだ。キャプテン・ミッドナイトの暗号解読機、169枚の銀貨、1958年現在のカレンダー、パレゴリックの八つのバイアル、外国産の種子が入ったプラスチックの袋、ブドウの葉っぱの小包みをいれた特別製のヒュミドール、フェタチーズの瓶がひとつ、シシケバブの串用に短く切ったコートハンガー、ボーイスカウトのシャツ一枚、シナモンスティック二本、セロリ味のドクターブラウンのボトルキャップ、ブルーミングデールズで漁ったフルーツオブザルームの下着の着替え、予備のコーデュロイのズボン、1920年代の野球帽、ホーナーのF調ハーモニカ、鹿の腰肉のチョップが六つ、そして任意の数の最近切って塩漬けにしたウサギの足。
バスターミナルでアテネ・グローブ紙を買わずに広告をパラパラめくっていると、春学期(訳注:アメリカの大学の春学期は一月中旬頃に始まる)に利用可能なアパートメントのリストのうちナンバー109に目が留まった。いま彼はその家の前をうろうろしていた。坂を上ったせいで息が荒いが、ドアや窓の数をかぞえて、家を査定している、逃げ道の幾何学を解いている。その家は赤いフレームから成る構造体、アメリカン・ゴシック様式だ、最近新たにペンキが塗られたようで、雪に縁取られている。郵便受けにはスイスのドローリーが彫られている。どこか田園的なところがあって、もし五月の朝にひどい二日酔いで目が覚めたとしても、壁に持たれて忘れな草の香りを味わうのは愉快なことだろう。
ドアをこわごわノックすると、いままで彼が見たなかで一番痩せ細った女の子が出迎えてくれた。タオル地のローブで襟飾りには子猫の綿毛のようなのを付けている、茶色の長いツインテールは黄色のゴムひもで結んでいる、まゆげはない。
「このフラットのことで来たの?」
イギリス人だ(訳注:フラットはイギリス英語)。キプロス島の農民出身の殺人鬼かも(訳注:キプロス島には現在でもイギリス、キプロス共和国、北キプロス・トルコ共和国の三つの国が併存している)。先天的な敵対者だ、気をつけろ。嘘をつこう。「僕の名前はイアン・エヴァーグリーンといいます、お嬢さん、あなたのおっしゃる通りです。中を見せてもらっても良いですか?」
「散らかってるのよ。わたしたち、いまちょうど学生ランドリーの向こうに引っ越すとこなの。場所わかる?」
おお神よ、ローブを来ているのにハイヒールなんか履いている。ローブの下はどうなってるんだ?控えめになれ。「はっきりはわからないです、一年以上離れていたのもので。学校当局はすぐにあれこれ移動させますから。素晴らしいフラットですね、ここは」
「わたしもそう思うわ」
悪魔のようなクレバーさ、パッド(pad=家の俗語)の代わりにちゃんとフラットと呼べた。彼女が俺を見ている。「ちょっとハンティングに行ってまして。アディロンダック山地(訳注:ニューヨーク州北部)にです。身なりについてはご寛恕願えたらと」
「ハンティングですって?動物を?」
「ええ」
「なんて恐ろしいんでしょう。立ち向かうこともできない小さな動物を殺すなんて」
「オオカミがいたんですよ。人を襲う熊も」
「熊ですって?ほんとに?あなた、玄関ホールに立ってないで中に入りなさいよ」
「僕がやっつける前に三人の子どもを四つ裂きにしてたんです。イヤな仕事ですよ。でも最高のショットを撃てました」
「あなた、イギリス人?」
「ギリシャ人です」
「まあ」
もう遅すぎる。もっとなんとでも言えたのに。別の仕方でやってみよう。「家族にマウントバッテン卿(訳注:ノルマンディー上陸作戦を指揮したイギリスの軍人)の血が流れてるんです。部屋は家具付きですか?」
「バケットチェアのうち二つは彼らの物です」と隣人の住居に通じる施錠されたフレンチドアに向かってうなずきながら、彼女はいった。「一つはわたしのよ。あとあのバタフライチェアも。ほんとに欲しいなら売ってあげても良いんだけど、でも快適じゃないわよ。少なくとも座るためのものじゃないわね」
だとしたらなんのためのものなんだ?彼女のまぶたの上の肉は彼女にまゆげがあったら描いたであろうアーチを描いている。試す価値がありそうだぞ。水が沸騰している音がする。タダ飯にありつけるかも。「そうだとしても必要な気がします。ところで、お茶を作ってません?僕はちょっと中を見に寄っただけなので─」
「全然気にしないで。一回りしてきなさいよ。あなたが最初に見に来た人よ」そしてキッチンへ行ったが、ジーザス、ストッキングまで着けてるぜ。「クリームと砂糖はお要りかしら?」
「はい、全部」ベッドルームはなくて竹の衝立で囲われた一画があるだけだった、悪い予兆だ。でもまだそれ以外は全体的に良い感じだった。ランプにはライスペーパーの笠が掛かっているし、白い壁、ナヴァホ族の敷物、広々したカウチ、暖炉。キッチンも見に行ってみよう。
「わたし、パメラっていうの」と木製の笊から取っ手のないコップへお茶を注ぎながら彼女は彼に語った。ローブは首もとがわずかに開いていて、襟飾りの子猫の綿毛も彼女のブロンドの胸毛が見えるには十分あいだが分かれていて、それが欲情の発作を引き起こした。
「なんの勉強をしているの?」二つのカップのあいだで。
「天文学です」彼は嘘をついた。「天地開闢の理論とか、銀河の膨張とか、量子のメカニクスとか、そんな感じのこと。君は?」
「建築をやってる」
「どうして寮に住もうとしないんです?」と希望を込めて。
「わたし、五回生なんだよね。キッチンは気に入った?巨大な冷蔵庫があったでしょ。これだけそろってればお金かかんないでしょ(they give you all your silver)。あなたの名前、ほんとにエヴァーグリーンっていうの?」
「父がベネディクト会に入ったときに母の名前から取ったんです」
「あ。詮索しようとしたわけじゃないのよ」
「お気になさらず。ブランデーを送ってくれますよ、修道士のパンもね(訳注:Monks' Breadはニューヨーク州フィンガーレイクス地域のthe Genesee Abbeyで作られているパン)。きみの名前はパメラ何?」
「ワトソン-メイ。でもあなた、ほんとに人を襲う熊を殺したの?つまりさ、それってかなりやるのが危険な行為じゃない?」
まさしく。それってきみの太腿の奥がひりひりと考えていることかな?まだ昼下がりなのに恥ずかしいことだよ、マチネにだってこんな話はあんまりない。パルカが隠してくれて良かった、じゃなけりゃ彼女は見ただろう。胸がやせっぽちなのはほとんど気にならない、それよりハイヒールとブロンドの胸毛だ。もう一押ししてみよう。「必ずしも危険ってわけじゃないですよ。猟師の腕と最初の一発が大事なんです」おやおや。
「もちろんそうでしょうね」
「一瞬で殺すか、やつらを振り向かせて心臓に一発お見舞いするかのどちらかですね。この話になると神経が高ぶってしまうんです。家の近くでお酒でも飲みませんか?」
「ちょっと早いんじゃないかしら?」
「そんなことないですよ、まったく」
「ジンとスコッチが少し残っていたかもしれないわ」
「メタクサ(訳注:ギリシャの蒸留酒)はないですか?」
「なにかしら?」
「スコッチが良いと思いますよ。お茶に注ぐんです。ぜひ一杯飲んでみてください。引っ越しの緊張をほぐしてくれますよ。僕はいつも言ってるんです。ハハハハ」
彼女はスコッチを注ぐと足を開いてバタフライチェアに座った。ローブが膝小僧の上までまくれた。結核患者のような手が襟を握りしめ首に押し当てている。ノーソスは鎮静作用のあるポールモールのタバコ(paregoric Pall Mall)を吸う必要があると感じている。痛みが脳に届くのを防ぐフィルターとして。だがその役割の一部はスコッチがやってくれた。
「あなたはこのフラットが好き?」
「おいくらですかね?」スコッチをすすりながら、肝心の質問を。
「七十ドルよ。もちろん誰かとルームシェアするなら三十五ドルだけど」
「もちろんですとも。ところで設備のほうは?」
「電話以外はなんでもあるわ。頭金をはらってくれるなら電話も置いていくわよ」
了解。「誰が住んでいるんですか?」うなずきながら、「このドアの向こうは?」
「ラハムータス夫妻だけよ(Only the Rajamuttus)、ジョージとイルマね。ベナレスから来たみたいだけど、すごく良い人たちなの、わたしたちと変わらないわ。あの人たちはグレナデンのシロップを入れたジントニックを一日中飲んでるの、誰にも迷惑はかけないわ」
可能ならコネをつくるか?「彼らの関心はなんですか、つまり、学校で」
「ジョージはホテルの経営学だったと思うわ。雑用係の研究とか、バーテンダーの管理法、そんな類いのことよ」
パンジャーブ・ヒルトンの誠心誠意か。パパドポウリスはボトルの最後の一滴を注いだ。「やっぱり借りるかもしれません、親愛なるお嬢さん。不動産会社のエージェントに会うべきですかね?」
「わたしが又貸ししてあげるわ。家主は田舎に住んでるし」
そしてネズミたちは踊るってか(When the cat's away, the mice will play=鬼の居ぬ間に洗濯という慣用句から)。
弱々しいノックの音がして、パメラが「すぐ行く」と呼びかけた。ドリンクを飲み干し、子猫の綿毛をぴっちり閉じ合わせた。警察か?怒り狂った父親か?それにしても懐かしい感じの声だ。
「…広告を見たんですけど。よければ、中を見せていただけたらと─」
「ごめんなさい。エヴァーグリーンさんがいま見ているのよ、わたしは彼が借りてくれると信じてるんだけど」
「その声はフィッツゴア(Fitzgore)じゃないか?」ニンジン色の赤毛とそばかすのある鼻がドアを覗き込んでいたが、ショックで青ざめた。
「スウィート・ジーザス・クライスト」
「入ってこいよ」
「だけどお前は死んだじゃねえか!どっか北の方で凍りついて。天なる神よ、パプス(Paps)」
「俺は復活したってのがすべて。そんで言葉には気をつけろよ、パプスってのは妖怪ババアの乳首のことだからな(paps are the dugs of an old crone)」(訳注:papsもdugsも乳首の意)
「俺、気分が悪い」
「ジンのボトルってまだあったりしますかね、パム、この血が薄いキャベツ野郎のためにね。俺の新しいねぐら(pad)に座っていきな、友よ(sport)、見回してみろって」彼は立ち上がって曖昧な握手をすると、彼より背が低い男の肩をぽんぽん叩き、ウィッカーチェアへと案内してやった。フィッツゴアはそこに半笑いでへたりこんだ。
「おいおい、ふざけんな、なんてひでえうわさ話だよ。ほかにもちょっとしたグランドキャニオンの話もあるじゃないか。しかしお前、ラスベガスでも目撃されてるぞ」
「暑さにやられただけさ、ファントム・ロッジで太陽神を探していてね。パメラにはもう会った?」
フィッツゴアは漠然とうなずき、チェリー・ソーダ色の周囲を興味深く眺めながら、差し出された酒を飲んだ。「グレナデン」と彼女が説明した。「ベナレスの慣習よ」
「それからサンフランシスコ湾のことだよ、あいつらは言ってたぞ─」
「ポリ公が助けてくれたんだ。彼はシュモクザメに片足を持っていかれたよ。ひどい皮肉だ、警官に救われるだなんて」
「マザー・オブ・ゴッド」
「ほとんど神格化されることもなかった。他の警官と同じただの警官。彼らは彼にリボンをあげてたよ、ミッキーマウスのスタンプもね、思い出せないけど。それよりウフ(Oeuf=フランス語で卵の意、俗語としてまぬけの意味もある)はどこだ?」
「病室で伝染性単核症から回復しつつある。ところで淋病のうわさもあったりしたんだけど」
「やっぱりな、ウフ。でも俺らは彼を訪ねなくちゃいけない。ドリンクを飲み干せ、キャンパスのツアーに行くぞ」
「今日の午後は実験があるんだよ、パプス。クラスはもう始まってるぞ、知ってるだろ。お前、学生として戻ってきたのか、違うなら何だ?」
「あらゆるものに少しずつ関わっている(Little of everything)」意地悪そうにニヤニヤしながら「もう履修登録は手遅れか?」
「たぶん五ドルの罰金を払わせられるわよ」とパメラが言い、ちょっとしたパーティームードを感じ取って、レコードプレーヤーにレコードを滑り込ませた。彼女には可能性がある、というぼんやりとした考えが浮かんだ。つまらない物神崇拝をしているのではないか?
「おお、なんちゅう音楽だ」フィッツゴアがいった。「無視できたら良いのだが」
「あなたってアイルランド系かしら、フィッツゴアさん?」パメラが尋ねた。レコードはバッハだった。ああ、彼女たちみんなの同一性ときたら。アイデンティティーは半ダースほどのLPに、いつも読む本に暗示されていて、わずか18個の穴の空いたパンチカードをユニバック(訳注:世界初の商用コンピューター。1951年より販売)に通すと、ターコイズブルーの紙入れに自分の正体が明かされた紙切れが運ばれてきて、その隣には最愛のソロリティの姉妹の写真があるって寸法。ベートーベン、ブルーベック、選び抜かれた交響曲、『預言者』(訳注:レバノン出身の詩人カリール・ジブランが英語で書いた詩集。のちにヒッピーのバイブルにもなったらしい)、種々雑多なアンソロジー、『クマのプーさんとぼく』。「彼のことはクリスチャンネームで呼んであげてください、パメラ。ハーディは信心深いんです。伝統に縋っている」
「ハーディ、ほんとに?」
「遥か昔にさかのぼる」フィッツゴアはいった。「セーレムのアイルランド人だった、先祖はバック・ベイにいた」
時間を無駄にすべきではない。「ミス・ワトソン・メイさん」とノーソスがかしこまって呼びかけた、立ったままだ、「僕たちは逃走しなければいけません。フラットはきっと上手くやってくれるでしょう、それで一つ忠告しておくのがフェアだと思うのですが、僕はこの手の音楽にはほとんど興味が持てないんです」
「音楽が好きじゃないの?」
「彼は自分で作曲してるよ」フィッツゴアがいった。
「四六時中してますよ。ほんの少しの技術の蓄積があるだけで、あとはギリシャ人の骨髄反射で曲を完成させるんです(Very little reserve, Greek marrow wins out)」
「わたしは良いと思うんですけどねえ、実際のところ」
「パパドポウリスという名前なんです、本当は。もし良かったら僕のことをノーソスと呼んでください、Gは発音しません、よろしいですね?またのちほどお会いしましょう」彼女はバッハのレコードを下ろしたが、少し残念そうな様子だった。俺たちが出ていくからだろうか?「夜は家にいますか?」
「たぶん荷造りをしているわね」
「寄ると思いますよ。ラハムータスさんに伝言を頼みます。僕はフィッツゴアとここを、あなたがなんと呼ぶにしろ、シェアするってね」
「ちょっと待てって」抗議の声。「俺は自分一人の場所が欲しかったんだよ、勉強するための─」
「はああ!」ノーソスが大声を出した。「まかしといて。それはもう、徹底的にそうしてやるから」
彼らは凍った階段を下りて通りに出ると、長い坂道の残りをキャンパスへ向かって上っていった。重厚で膨らんだ雪の塚がいたるところにある、ミスティック・レイクスの冬の子どもたちが北から早くもやって来たのだ。空はふくらんでいて不吉で、巨大なカーペットのような雪の切片をたえまなく降らし続け、雪は色のスペクトルの極端なところを中性化し、もののかたちを不毛にし、音を消し去ってしまう、そして最初の雪解けの流れに対して、丸裸の太陽の最初のきらめきに対して、徹底抗戦しようと待ち構えている。俺はイオン化されていないし原子価も持っていない。
果たして生きていると言えるであろうか
かつて一度も自分の頭に向かってしゃべったことがないほど
死んだ男の魂は、
But breathes there a soul
with man so dead
who never to his head has said,
(訳注:ウォルター・スコットの最初の長編詩『最後の吟遊詩人の歌』を換骨奪胎している。原典では、
これこそわが祖国、わが祖国なのだ
と自らの胸に語りかけたことがないほど、
魂の死んだ男が果たしてこの世に生きているであろうか!
異国の岸辺を放浪したあとで、
故郷へとその足を向けたとき、
身内で心が燃え上がらなかったような者はいるであろうか!(佐藤猛郎訳)
Breathes there the man, with soul so dead,
Who never to himself hath said,
This is my own, my native land!
Whose heart hath ne’er within him burn’d,
As home his footsteps he hath turn’d,
From wandering on a foreign strand!
となっている。ウォルター・スコットが謳う愛国心はパパドポウリスにはなく、頭のなかにあるのは以下のやりとりにあるようにドラッグのこと)
「なにか起きてることはあるか、フィッツゴア?」
「どういう意味だ?」
「なにかクソみたいなことがあるかってことだよ」
囁き声で、赤い頭を亀のようにオーバーコートの中にひっこめ、目はキョロキョロと混雑したアヴェニューやドアや窓を上へ下へと探し回っている、その中のだれかが受精を待つ宿命的な卵巣を包み込んでいるのかもしれない。「お前、ヤクの話をしてんの?」
「ウフはどうなんだ、あいつがヤクをやってないとは言えないだろ」
「いいやまったく。お前が消えてからはまったくだ。そんで角が立たない言い方をさせてもらえば、俺は卒業したいんだ。あとたったの六ヶ月だぜ、わかるだろ」
「もちろんさ。でブラック・エルクスの下町はどうかな、太っちょフレッドは?」
「白人でそこに行くやつなんか一人もいない」
「俺たちで行ってみよう。こんなときのためにパレゴリックをいくつか持ってきたんだ。みんな電動扇風機は持ってるのかな?」
「ホーリー・ゴースト、パプス、お前ってやつはほんと災いのもと(the kiss of death)だな」
「フロイトの用語で死への欲動(タナトス)だね、でもタナトスってのはギリシャ神話の神でもあるのさ(That’s Thanatos, but also Greek)」
黄金の女の子たちに関するすべては、みんなレアヴィルの街で嗜好品をショッピング中だってこと。こんな野生のたてがみを生やした冬の寒さのど真ん中というのに、スニーカーにスウェットソックス(sweatsocks)を履いてクリーム色のレインコートでスキップしている。鋳型でつくられた一つの世代だ、白色人種のパターンの大いなる作り手(the Great White Pattern Maker)が豊かなベッドに横になりながら、液体が冷却されていくのをニヤニヤ眺めている。だが彼は俺の鞴(ふいご)の存在を知らない。そこでは何者かが息を大きく吸い込んでは力強く吐き出しているのだ。二回生はすでに三回生用の新しいブレザーを着ている、土曜日の雑誌が木曜に売りに出るようなものだ。キャンパス内の店で買ったテキストには真新しいカバーがかけられていて、計算尺は革に入れられぶら下がりまるで鞘に収めたブロードソードみたい、チノパンは磨かれすぎて無垢な繊維に戻ったみたいだし糊を利かせてカミソリのような折り目がつけられている、クルーネックのセーターの下にはボタンを留めたオックスフォードシャツを着ている、青い目がいたるところで弾んでいる、そして一日分のビタミンのアンドロイド合成(android synthesis)のために目が釘付けになる(訳注:おそらくだが、アンドロイド合成は生合成biosynthesisを元にした言い回し。「鋳型でつくられた」似たり寄ったりのまるでアンドロイドのような彼/彼女らは、機能を維持するために外部から大量のエネルギーを摂取しなければならず、常にごちそうのことを考えているということか)、トロピカーナのオレンジジュース、田舎で取れた新鮮な鶏卵、均質化されたクラフト・チーズ、栄養強化された牛乳のテトラパック、日差しを浴びて熟したバナナ入りのチェリオス、コーンフレークをまぶしたチキン、ホットファッジサンデー、デイリークイーン社のルートビアフロート、チーズバーガー、色々混ざったクリームコーン、リボフラビンのエキス、ビールのためのイースト菌、さくさくのピーナッツバター、ツナのキャセロール、パンケーキと模造メープルシロップ、クラシタのステーキ、不定期に手に入るメイン州のロブスター、ソーシャル・ティー・ビスケット、脱脂した小麦の胚芽、ケロッグ社のコンセントレート・シリアル、切ったサヤインゲン、ワンダーブレッド、ボスコ社のオリーブオイル、バーズアイ社の冷凍豆、刻んだほうれん草、オニオンリングのフレンチフライ、エンダイブのサラダ、レンズ豆のシチュー、日光で乾かしたキジの内臓、ピーカンナッツのサンデー、アーモンドジョイ、オーレオマイシン、ペニシリン、破傷風予防のトキソイド、種痘、アルカセルツァー、エンピリン、ヴイックスヴェポラッブ、クロロフィル入りの制汗剤、スーパーアナヒストの鼻スプレー、ドリスタンの充血除去剤、何十億立方フィートもの健全さ、空気呼吸システムも再調整されている、そしてさらにもっと多くのフラタニティ的実践の健全な改良版が「欧米人」には利用可能なのである。おお、厳格に管理された善良な意志と強制的に与えられた自信を持った柔和ではないものたちが結局のところ地を受け継ぐであろう(those who are not meek but will inherit the earth all the same.)。(訳注:マタイによる福音書5のイエスによる「山上の説教」を踏まえている。「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」新共同訳聖書より。New International VersionではBlessed are the meek, for they will inherit the earth.となっている。柔和とは程遠い杓子定規なアンドロイドたちが地を受け継ぐという皮肉なヴィジョンか)
彼はヘフと過ごした前回のクリスマスを思い出した。メキシコ産のハッパとバードバスに注がれたマティーニで酔っぱらい、帝王が主催したような女難/受難に満ちたパーティー(a purple passion party)で博士過程のやつの車(D-Phi car)を盗んで、二人してラムロッドにある舶来品の飼い葉桶へと突っ込んでいった、半時間ほどは家畜小屋のまわりを囲んだ30センチほどの背の高さの小さな人形たちを眺めていた、上方のスピーカーから流れてくるグレゴリオ聖歌の祝福を大音響で聞きながら。神父たちのうちの一人はあまりにも明白な斜視だった。
おい、ヘフマン、お前セバスチャンってわかるか?
俺がなんだって?
あの斜視の神父さんだよ。セント・ジョゼフ教会の裏の。
ああ。わかるよ、彼を見てみろよ、斜視だぜ。
つまり趣味が悪いってことだ、だろ?
んなことなんでわかるんだよ?
彼には二重に見えるんだ、わかるか?
おう。
彼には二人のちっちゃい赤ん坊のキリスト・ジーサシーズ(Jesuses)が見えるんだ。
そう思う。
それって困ったことだよな。
そうか?
二人の小さいジーサシーズ、つまり、キリストってさ、ローマのカトリック教会にとっちゃパラドックスじゃないか。
よーくわかるぜ(I’m hip)、パプス。
どっちか一人を取り除こう、そんですべてをきっちりさせよう。
パパドポウリスは石膏でできた子どもの人形を持ち上げると上着のなかにたくし込んだ、まるでヴィンテージ物のシャンパンにそうするように。二人は何気なく向き直って、違法駐車した車までゆっくり歩いていった。そして座ってモーターを起動した。
知ってるか、ヘフ、ヴァージン・マリア・マザー様が誘拐の一部始終を目撃してたってこと。
彼女にはお見通しってわけか?(She’s hip?)
俺たちはトラブってるってわけ。
彼女を捕まえちまおう。
ヘフはヴァージンの彫像を飼い葉桶まで取りに行って、ぎこちない動作で車まで戻ってきた、そして足下をガチャガチャ言わせながら運転していると、突然人形が宙を飛んでいって、底に比重のある弧を描いて石に当たって砕けてしまった、首はさらに吹っ飛んで道路を転がっていった。
彼女はクールさを失っちまったな、パプス。
そうだな、それ、拾ってポケットに入れとけよ。
雪に覆われたキャンパスを抜けて、ハッピー・クリークへとドライブ。パパドポウリスは子どもの人形を可愛がっていた。顎の下に挟んでみたり、人形のへそを小指でつついてみたり、うんちを漏らしてないか産着をさわってみたり。橋のたもとに車を停めてふらふら渡っていった。
伝統だよ、親愛なるヘッフォラン(Heffalump=「くまのプーさん」に出てくるズオウの英語名)。
気をつけろ。橋を壊しちゃいけないぜ。
彼らはかわるがわる人形たちにキスをしてから雪まみれの空虚へとそれらを放り投げた、凍った峡谷をそれらが転がり落ちていくのを感じた。落下の衝撃に耳を傾けていると、二つのくぐもった破砕音が聞こえた。
セバスチャンを探しに戻らないか、パプス?彼なら二人の誘拐犯じゃなしに四人の誘拐犯を見ること請け合いだ。
彼を捕まえよう。
誘拐された神父はグイドズ・グリルのピンクのフォーマイカ製テーブルの天板に直立、回りを囲んだ者たちはみなクリスマス・キャロルを歌って、斜視の目に映るイメージへと祝杯を捧げた。ヘフはクスクス笑いながら自作の歌詞を口にした。
聖なるみどりごは
とっても優しくて穏やか、
素晴らしい女の子たちに囲まれて眠っている……
Holy Infant,
So tender and mild,
Sleep in heavenly pieces . . .
(訳注:「きよしこの夜」のパロディ。原曲のheavenly peaceがheavenly piecesに変えられている)
素晴らしい女の子たち、といえば─
「アイビーリーグの女の子とヤったことある、フィッツゴア?」
「ジーザス・クライスト、それはもっとも心穏やかでいられる質問だろうね」
「俺は航海をしてきたんだぜ、オールド・スポート(訳注:フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』のギャツビーの口癖)、一種の冒険の旅だよ、大火も見たし悪疫も見た、大いなる病の兆候だね。俺は「免除」されてるけど」
「キルケ三番地(Circe III)にちょっとしたニンフォマニアックがいてさ、へフが彼女を捨ててから誰とでも寝てたね。でも彼女はこぶがあったな」
「素晴らしいヘッフォラン、いつでも奇形を愛している。彼女は良かったか?」
「そのことについてはあんまり考えたくないんだ。グラスホッパーを飲ませて酔わせたら車のバックシートで盛大に吐きやがったんだ。パメラみたいな女の子になら興味があるけどね」
「車だって?四駆なんか持ってたのか?」
「最終学年ってことでインパラを父さんが買ってくれたんだ」
「おお、素晴らしい。素晴らしいな、素晴らしい病気と腐敗だ」
「おい聞けよ、パプス、マジでさ。俺は今学期は猛勉強しなきゃならないんだ。毎日18時間も勉強して、それなのに仮及第中なんだぜ(I’m on pro.)」(訳注:academic probation=学業不振者のための措置で、「成績があがらないと、一定期間後は退学処分になるという警告」を受けているということ)
「それで?」
「それで、なんとかやりきらなきゃなんないってことだよ」
「もしかしたらいつの日か、お前のような先祖の血を裏切るネズミ野郎に、俺はどうしてそんなことをと聞くことになるかも知れん。だが今日ではない、だろ?さあルイの店に行こう」
「ただいま取り壊し中だよ」
「なんだと?」
「ラルゲット・ロッジなるものを建ててる。物事は変わっていくんだ、神に誓って言えることだが、一年も国中をほっつき歩いたあげく何も変わらぬ騒がしい風景を期待するなんて無理だ。さ、プラトー・ピットで一杯やろうぜ」
よろよろと重い足取りで、六十度の角度になりながらけっして水平にならない丘の道を戻っていく、パパドポウリスは左右にいる学生たちのことを考えている、破滅の音が聞こえない彼らの耳のことを。小さな店や商売が発生して代々受け継がれている家業のご機嫌を伺っている。新しい写真屋は、窓越しに見たドラマチックなポーズを撮るのが専門で、背景は黒、下からパイプの煙を燻らした顔に照明を当てる、情熱的な強度がある─俺を見てみなよ、俺はホメロスの胸像だぜ。学生ランドリー(Student Laundries)では野心的で髪を短く切った男たちがみんなの洗濯物を混ぜ合わせてきびきび動いている、仮免のドライバー(student drivers)が見習いの送迎ドライバー(student routemen)の運転する学生用のヴァン(student vans)に楽しそうに飛び込んでいく、泥だらけのフルートブーツが雪のなかで軋んでいる、誰もがビジネスに一役買っている。どうやって彼らをだまくらかそう、とノーソスは案じる、ヘフと地下室で回したルーレットの輪を思い出しながら。突然、蝶番をギシギシ軋ませている掲示(sign)が目に入る─メンター大学、1894年創立。口ひげを生やした三回生たちのヴィジョンが浮かぶ、セルロイド製の襟をして、学部生の語彙を発達させていった、彼らが伝統を作っていったのだ。俺に「調子はどうだ、エース?(how’s your ass, ace?)」と呼び掛けるためのヴィクトリア時代の人間(訳注:1837年から1901年まで)を与えてくれ。それから乳牛のための牧草地も。切妻造りのジョブ学生寮は当時の空気を感じさせる(sign of the times)。
大学ゴシック様式のロースクールを通りすぎる。実際のところはイェール大学の物真似なのだが、中庭は愉快だし、決闘用には素晴らしいだろう。規則破りの髪型をした何人かが彼を見るため振り返り、その光景を信じられずにいる、あの巻き毛の変人は何者なんだ?新しい顔ぶれ、若いアメリカ娘の驚くべきボディはウールの下からでさえ誘惑してくる。俺の視線を避けてくれよ、お嬢さん方、下心が見え見えだろうから。弁護士と結婚するまえにわざわざ気違いにのっかろうなんてする気かい?マティーニの飲み過ぎで彼氏が無精子だった場合に備えてノーソスさんの種が必要ってか。あの緑のニーソックスを履いた子。前に見たことがあるぞ。
「あの子は誰だ、フィッツゴア?」
「どこだよ?」
「緑のニーソックスの子だよ、ローファーを履いてる」
「知らないなあ、政府で働いてる天才かなんかじゃないかな」
驚くべき脚だ。脚が自分たちがどれ程長いかわかっていたらなあ。中道の誤謬(The Golden Fallacy)ってやつかね(訳注:真実は常に両極端の中間にあるという誤謬。ここでは、脚は長ければ長いほど良いという主人公の趣味を正当化するために使われている)。なんてこった、あれには救済される価値がある。「それから向こうのあれはなんだ?」
「新しい工学部棟だよ。当局は化学部のまわりのパッとしない中庭全体にあの手のものを作ろうとしてるんだ。お前が去ってった時にはもう計画が持ち上がってなかったっけ?」
「確実に違うね」色付きのアルミニウム製プレートと悪天候にも耐えられる長い板ガラスにはダイマクシオン的なねじれが加えられている(訳注:ダイマクシオンはバックミンスター・フラーによるデザイン概念)。集合住宅という福袋の中身を総合したものが詰まっている。清潔で、照明もばっちり、光熱費も安く済んで、機能的、週末に三連休でもあれば取り壊して別のものに置き変えられる、またはヘリコプターでラスベガスへ輸送できる、解体がすでに構造体のデザインのなかに仕込まれている。死すべき運命への目配せだ。
クアドルーンのヘッフォランはプラトー・ピットのジュークボックス横でワニスを塗ったピクニックテーブルのひとつで食事の時間を遅らせていた、造花のツタ(ivy)を絡ませた悲壮なプラスチック製植木鉢の下で。彼の痩せた、四分の一黒人の血が混じった身体はレッドキャップの近くに寄り添っていた、いざというときすぐに取り除けるように。彼の隣の女の子はジャンヌダルクの髪型で、男物の服を着ている。ゆっくり近づいていって、彼に事前に知らせてやろう。
「あれは本当にヘッフォランかな、フィッツゴア?鼻にエールの泡をつけながらうだうだ悩んでいるやつは」
両手両足が爆発的に伸びて蜘蛛の脚みたいな感じになった、レッドキャップがガタッと音を立ててテーブルに転がり、こぼれて発泡性の水たまりをつくる。「ギャアアアアアア!」彼の目は信じられない光景を前に月のように輝いている。
「なんで隠れようとすんだよ?大いなる冒険から戻ってきたっていうのに誰も握手をしてくれない。ペリシテ人どもめ」
「ジーザス・アンド・メアリー!お前は死んでなかったのか!」
「フィッツゴアによれば死んでないそうだな」
「テキサスかどっかでパチューコにさ、ウフが俺たちにお前は殺されたって話してくれたんだよ」
「ウフ自身の死の願望の投影だろうな。それにニューメキシコだし、パチューコが燃やしたのはボーイスカウトたちだった。俺について言えば、牢屋には入れられてたな」
「マジかよ」ヘフは神経質そうにクスクス笑っている。「俺たちゃお前は倒れたと思ってた(we thought you were down)」人々がじろじろ見始めている。フィッツゴアはどぎまぎしてしまって、ジュークボックスにコインを入れるとビールを待つ列に消えていった。ジャンヌダルク・ガールが頭を突きだして言った。「わたし、ジャックよ。あなたがパプスなのね」彼女の声はしゃがれたバリトンだった。
「ノーソスです、どうも」握手をするとき彼女の法外な握力に気づいて、それから席に座った。ヘッフォランの口はいまだにクスクス笑いのため閉じていない、巨大な歯がビーバのそれのように前方に突きだしている。
「ワオ」と彼はいった。
「ホントになんにも聞いてなかったのか?」
「アディロンダック山地のことはなんか聞いたな、でも誰もはっきりとは知ってなかった、とにかくいつも時系列が狂っててさ。俺たちはお前が帰路にあるのかまだ先に行くつもりなのかもわかっていなかった」
「俺だってわかってなかったよ。気づいたら戻ってきてたんだ。ノースビーチで突然閃いてさ、俺のイメージを他のやつらの顔と並べてあれこれ考えてみた。俺の「免除」された状態が脅かされていた、だろ?逃げるしかなかったんだ」
「どうして?」とジャックと呼ばれる女の子がいった、彼女のまつげにはシワが寄せられ、ちょっとシリアスな感じだ。
「誰にもわかんないよ。猿の悪魔(the monkey-demon)を出し抜けつづけなきゃ。徴(しるし)はそこにあった」(訳注:この台詞、よくわかんないです…)フィッツゴアが戻ってきて、辺りを見回してから三缶のエールをテーブルに置いて、またどこかへと戻っていった。「時期は正しかったよ、概ねはね」そしてリュックサックの最後の銀貨の背後には大惨事が潜んでいたのだ。「まだルーレットはやってるのかい、ヘフ?」
「シーッ!マイ・ゴッド、その件になると当局は俺を見た瞬間に逮捕するだろうよ」
「運営が新しくなったのか?」
「スーザン・B・パンクハーストとか呼ばれる女。学生課の副主任だ」
「処女かな?」
ヘッフォランがうめき声を出しうつむくと、それと同時にこぼれたエールがジーンズに滴っているのを発見した。ジャックが笑って彼の背を叩き、彼を咳き込ませた。下腹部だけの同性愛者とはわけが違うってか。「ねぐらについてはどうなってるの?」と彼女は尋ねた。
「ちょうどフィッツゴアといっしょにアカデミア・アベニューの部屋を見つけたよ。お上品なイギリス人が引っ越すんだ」
「イギリス人?」
「フィッツゴア?」ヘフがいった。「あいつ、フラタニティの会員だぜ」
「かつてメンフィス・スリムがいった家賃問題(rent situation)ってのがあってね。それにやつは四駆を持ってる」
ジュークボックスからペギー・スーに向けた言葉が大音量で聞こえてくる、しゃっくりの止まらないバディ・ホリーだ。(訳注:「ペギー・スー」は1957年7月発売のバディ・ホリーの曲。言われてみるとしゃっくりしながら歌っているようにも聞こえる)
フィッツゴアはお茶を一杯用意すると、砂糖を一かたまり入れて溶かしている。「いつ引っ越すつもりなんだ、パプス?俺はまだフラタニティ・ハウスに住んでるけど、そして今日は、授業が始まって二日目なんだけど?」
ヘフは缶ビールをちびちび飲んでいる。
「今日の夜、確認してみる」とノーソス。もしかすると彼女の素晴らしい胸毛を手中にできるかも。語るに足る胸はないけど、長いあいだご無沙汰立ったからな。それに大事なのは脚だ。もしかすると真夜中に即席料理をつくるかも、ブドウの葉で巻いたドルマに、少しのタマゴとレモンソースを添える、そしてムサカ(訳注:ギリシャ料理)だな。メタクサが要るな。この後どこで飯を食おう、フィッツゴアのフラタニティ・ハウスか?
「ペギー・スー」はブーブー言いながらコーラスへと突入している。
「お前ん家って新入生の歓迎パーティーはやってんの、フィッツゴア?」
「毎週ね。たぶんだけど引っ越したら罰金を払わなきゃいけないかも」ティーバッグをフォークでカップに押しつけながら。彼に聞いてみるか。
「ギリシャ人にとって不利ななんらかの条項があったりするか?」
「ないと思うよ」
突然、なにかを悟って、コップをくちびるから落とし、コップの縁越しにじっと見てくる、額にはかすかにシワが寄っている。「なぜそんなことを聞くんだ?なにを考えている?」
「ああ、盗まれたハリス・ツイードのことかな、ダックスのやつだぜ、チャリス生地のネクタイ付き─なぜだよ、俺には丘の上の一番良い家に住む資格があるぜ」
「俺たちが二年前に博士課程のやつから頂戴したんだ」とヘフ。「パプスは上手いよ」
「俺は最高だよ。既知に富んだ会話が出来るし、室内ゲームもお手のもの、シャレードとかね、ギリシャのアルファベットを暗唱できるし、軍隊にだって感銘を与えられる。お前が住んでる家はどんなんだ?」
「D.Uだよ。でも─」
「Dikaia Hypothekeか、素晴らしいモットーだな。霊感を与えてくれる、といっても良い」(訳注:「ディカイアの乾杯」みたいな意味か。ディカイアはポセイドンの息子で、英雄ヘラクレスを手厚く歓待したことで知られる。)エールを軽く一杯、するとすでに感じている、むかつく胃や気がかりな酸を。「秘密の家ってわけじゃなかったよな、俺の記憶が正しければ。秘密の握手もアブラカダブラもなし、スクエア・ディール(訳注:セオドア・ルーズベルト大統領による一連の国内政策)に賛成だったから延期になった儀式なんてのもない。なにが起こるかわからんぞ、フィッツゴア、俺が教義を理解して誓願するかもしれないだろ。ヘル・ウィークのあいだはてっぺんにプロペラのついたビーニーをかぶって、授業中にアヒルのおもちゃを演じるよ」(訳注:Hell Weekとはフラタニティへの入会希望者が、加入の儀式の前に上級生から徹底的にしごかれる一週間)
「ジーザス、お前、タダ飯を食おうとしてるだけだろ。彼らのうち何人かはお前を知ってるかも」
「お前ん家にはなにがあるんだ?フィレ・ミニョン?バターを塗ったロブスターのしっぽ?俺を感動させるほどグルーヴィなものはあるか?」
「そもそもお前はまともな日常服すらもってないじゃないか」
「ヘフ?」
「ブルックスブラザーズのスーツをランドリーから取ってきたとこだよ」
「どうぞお使いになって」ジャックは両手を擦りながらまた彼女のバリトンの笑いを笑っている。それでも彼女は容姿端麗だ。彼女にはルームメートがいるのだろうか。「六時になったらヘフの家でわたしを乗っけてってよ」
「ジーザス、パプス、俺にはわけがわからない」
「彼らは俺を愛してるってことさ」この瞬間を祝福するためリュックサックへ手を伸ばすと一枚の銀貨といくつかのフェタ・チーズにぶつかった、そこでさらに湿ったウサギの足とか下着を掘り進み、パレゴリックのバイアルのあたりを探る。彼は瓶を開けると、白くて分厚いヤギのチーズを乱暴に四つに引きちぎり、それを頭の上に掲げてもごもごと厳粛に唱え出す。
全能なる神よ罪の告白をお聞きください
祝福されし常に無垢なるパパドポウリスよ
祝福されし常に荒野にあるパパドポウリスよ
“Confiteor Deo omnipotente,
Beatra Pappadopoulis, semper virgini,
Beatra Pappadopoulis, semper paramus.”
(訳注:最初の一行はキリスト教の典礼で使用される決まり文句。ほんらいならbeatae Mariae semper virgini=to blessed Mary ever-Virginと聖母の名が続くのだが、パパドポウリスは自分自身を神の次に位置付け、自分で自分の告白を聞くような構造をつくりだしている)
ちょっとした聖変化だ(訳注:ミサにおいてパンと葡萄酒がキリストの身体となること)。「これが俺の身体だよ、みなさん」それからレッドキャップの缶を前に持ってきて「これが俺の血だ」。ヤギのチーズは銅製のプレートの樽で調理したものだが、それは存在というものが愚劣な細胞にすぎないことの象徴だ。彼は聖別された指でもって彼の前に突きだされた舌の上へチーズを乗せていった。
「俺は罪を贖われた」とヘフがいった。
「アーメン」とジャック。
フィッツゴアへと銀貨を一枚ポンと投げながらノーソスはいった。「それ、俺の財産ではかなりのパーセンテージなんだぜ、もっと血を買うためのな」
「オーケー、代わりにお茶を買えたら良かったんだけどな」フィッツゴアは従順にビールの列へと向かっていった、この後のディナーのことはすっかり諦めて。ジャックがこっちを見つめて、大胆不敵に笑っている。気をつけろ、彼女はヘフの女かもしれないぞ。友だちの女のことで揉めるなんで勘弁だ。フィッツゴアがほとんど一瞬で列から戻ってきた。
「彼らが受け取ろうとしないんだ」
「なにを?」
「お前の銀貨だよ」
「受け取ろうしない?」
「彼女はこんな銀貨見たことないっていうんだ、レジの女がさ」
直ちに立ち上がり、目を輝かせながら、マジシャンの冬用ケープのように広い肩にパルカを羽織ると、髪の毛が耳の上に垂れてきた。ドシドシ列に向かっていくと、コーンマフィンを買おうとしている二人の女子学生の前に来た、すると二人ともスニーカーの先をガチャガチャいう彼のブーツから引っ込めた。なるほどレジには顔の位置にポテトを置いたような女がいて、顔色はまるでウィーテナ(訳注:アメリカで販売されているコーン・シリアルの商品名)のよう。彼女のような女を百回も街道沿いの宿屋と脇道のホテルで見たことがある、数えきれないほどのスーパーマーケットや特売場でも、プリント柄のドレスでしゃがみこんで、ヒールの低い靴を履いて(wearing hobheels)、ウールワースでの秘密の買い物のにおいをさせながら、唇はすぼんでいて、情熱は二十年も前にもぎ取られたか使いきってしまっている。諦めてしまった者たちは俺の敵だ。
三缶の開封済みのレッドキャップと一杯のお茶が彼女の側で待機していた。彼は銀貨を思いっきりレジに叩きつけた。
「そいつは使えないよ」と彼女はいった。「もうすでに一人送り返したんだけどねえ」
「どういうことだ?」
「使えんのよ」
カウンターに両方の手のひらを押し付けて、ひたすら前のめりにもたれかかるので、彼女は位置を変えて後ろに下がるしかない。「崇高なくらいバカバカしいご海容賜れますよう(I beg your sublimely idiotic pardon)、だがこれは使えるしあんたはこれを受け取らなきゃならない」
「大変申し訳ありません、お坊っちゃん(sonny)、ですが─」
「お坊っちゃん?お坊っちゃんだって?俺が誰だかわかっているのか?」
プラトー・ピット全幅が静寂へと沈んでいった。テーブルのどの頭も大声の叫びが聞こえた方向を向いている。
「俺はクソッタレのモンテスマ王だぞ(訳注:コルテスに滅ぼされたアステカの最後の王)、誰だかわかったか、そしてこれは俺の王国のコインだ」
女は助けを求めて周りを見回しながら、衝動的にレジのキーを指でいじくっている、開いた口がふさがらず、ひじはバランスを取ろうと秤のように揺れている(her elbows seeking balance)。
「そしてもしもあんたが俺の国の象徴に敬意を払い損ねたら、あんたの心臓をえぐり出してやるからな、わかったか?!お前の身体から出してやる出してやる出してやる」彼女は息を飲んだ。「ピラミッドの頂上でな」彼女がよろめいた。「そうして生のままでそれを喰ってやる」
二人の女の子はコーンマフィンを落っことして、気違いから距離をとろうと後ずさった。レジの女は頭からすっかり血の気が引いていた。
ノーソスはエールとお茶を取り上げると、シーッと言って黙らせた「釣りは取っとけ、ベイビー。自分のために温かい水でも買ってやるんだな」席に戻ってみると、みんな用心深いヒソヒソ声のベールに隠れてすばやく酒を飲み干した、それから雪の切片が空に対して灰色に見えるすでに暗くなってきた夕方の街へと出発した、通りすぎていく車のタイヤに巻かれたチェーンは道路の上で耳障りなくぐもった金属音を発していた。