見出し画像

逃げのための無思考とか心のための無思考とか

無思考の自覚

幼少期から今まで、なんの問題もない人生を送ってきた。
要領の良さと少々の英語力のみが取り柄の、ごく普通の学生だった。
好きなものは特にないけど、好き嫌いなくそこそこ頑張れる。
普通に中学受験をして、まずますの運動部に入り、そこそこの大学に進学した。
あとやるべきことといえば、サークルで遊び、広く浅く友達を作り、バイトをし、酒を飲み、適当に就活をして、適当に卒論を書く。だけのはずだった。

入学式で新歓のビラを全て断ったおかげで新歓期間というものすら知らなかった私は、何を間違えたか焦って真面目なサークルに入った。
理念もわかった。やっていることもわかった。作業もコツさえ掴めばある程度効率よくでき、まあまあの量をこなしていくのも全く苦じゃなかった。
ただその中で唯一苦手な活動が、「自分の理想を聞かれる」ことだった。

ゴールさえ設定されていれば、その道筋を考えたり、必要なものを洗い出すことは大得意でも、
何に向かえば良いのかを自分で生み出すことがどうしてもできなかった。
考えても考えても何も出てこなかった。
この時初めて、今まで言われた通りの道を歩んできただけで、自分で何かを考えたことなんてなかったんだと気づいた。正直めちゃくちゃ焦った。でもどうしていいのかわからなかった。
周りは、論理こそぐちゃぐちゃだが、やりたいことや理想を目を輝かせて話していた。でも当時の私は、羨ましい気持ちもありつつも、みんな論理性に欠けていて何を言っているか分からない。この集団とは一緒にいれない。と一蹴してそのまま退会してしまった。

せっかく自覚した無思考を逃げ道に

さて、周りを理解できずにフェードアウトした私に残ったのは
今後自分が考えを誰かに話した時に、訳がわからない奴だと思われたら怖い
というトラウマだけ。これは今も残っていて、心を強く持たなければ、、と思っている。

相変わらず自分の思考は持てず、本を読んで、いろいろ調べて、自分で考えてみても、少量のインプットと拙い頭から出てくるものは全部浅はかで、毎回自分でもびっくり絶望してしまう。
こんな無価値な自分が恥ずかしくて、ペラペラの中身がバレるのが怖くて怖くて。それならばと一般論で武装をし、結局視座が低くて無思考でヘラヘラした人間でいることでダメージを受けないように生きてしまっていた。自分で考えるのって大変だし、この方が楽だし。別に全然生きていけるし。向き合わないと一向に上手くなっていかないのに。
もうこれ以上自分に失望しないように、自分を嫌いになる前に、と逃げてしまう。

無思考排除作戦での心と頭の不調和

こんな私でも、ちょうど就活の時期あたりに、自分の理想の社会とか、どのロールをやりたいかとか真剣に考えてみようと思った。もちろん適当な理由をつけてやり過ごすこともできるけど、この機会にこの浅はかな思考をどうにかしようと思って。本を読み漁ったり、必死にいろいり考えたりしてみた。でも、その間心はどんどんすり減っていった。

いま考えると、確かに選考落ちとかも辛かったけど、でもそれよりも、四六時中焦燥感に苛まれていたことが大きかったのではと思う。

就活のアドバイスや記事を読むと、やりたいことがすぐに出てくる前提で話が進んでいく。しかも就活の時に会う人は、なにがやりたいの?に答えられないと、論外みたいな雰囲気を出してくる。まずそこが決まってないことにはこっちもアドバイスしようにもね、、みたいな。
自分と向き合って、といわれてもなんのベースも情熱もない自分の中から捻り出そうとしたって何も出てこない。世の中にはどんな職業があって、自分が理想とする社会はこうで、その社会のためにはこれが必要で、その中でも自分に合っているのはこれで。「これが好き!」がない私には、こう考えていくしか思いつかなかったけど、何一つとして答えは出なかった。

こんな何者でもない自分じゃダメだ、だから認められないんだって、もっと本とか読まなきゃ、資格も取らなきゃって。いざ寝ようとしれもひっきりなしに脳が話しかけてきて、うるさくってありゃしない。友達と遊んだり、体が疲れちゃってぼーっとしているしかない間も、ずっとずっと焦ってた。

でもあいにく私の心は、勉強を頑張っている自分、という自己満足感だけでは満たされなくて。植物を眺めて話しかけたり、アートなんて何も分からないくせに美術館に行ったり、友達と旅行したり、塗り絵したり、内容のない飲み会に行って騒いだり、リビングで一人カラオケダンス大会したり。心はこういう時間が必要みたいなのに、集中すべきことに関係ないじゃない!と頭が自分を責めてしまう。

結局いろいろ考えてやってみても、やりたいことはわからなかった。でもあのプロセスが無駄だったとは思わない。
自分の無価値の埋め合わせに全振りすると、頭と心と体が不調和を起こして、ひどく疲弊してしまうということに気づけたし。

心のための一時的な無思考なら

ここまで書いていく中で、一時的な思考停止状態という意味での無思考なら、
「無思考=悪」ではない気がする。

数時間考えることをやめたって、これまでの思考がチャラになるわけではない。
確かにたくさん考えている方が、結果的な思考の質は上がっていくと思う。でも、心の調子も大切にしたい。
だから私の場合、思考のON/OFFの切り替えをはっきりさせることで上手くいくのではないかと思う。ちょっと疲れちゃったな、と思ったら思考のスイッチを切ってぼーっとしてみる。
そしてOFFの時の自分を責めないこと。
決して時間の無駄なんかじゃなくて、心の回復のために必要な時間だったって。その時の自分も認めてあげられるように。

思考の方法はいま考えてみたものを試してみる。あとは自己開示の勇気と方法だ。
結局今は、いろいろ考えるけど、まだまだ薄くて拙くて。怖くて自信を持って話すことはできないという状態にある。
でもNoteなら、匿名なら、知らない人になら、開示できそうな気がする。ここから始めて、いつか自信を持って生き生きと考えを言えるような人になりたいな。

自分が無思考と自覚した時期も、自己開示を始めた時期も、自分の周りと比べたら遅れているけど
23歳と1週間、まだ大丈夫、まだ間に合うよね、という期待を込めて。


〜追記〜
思考のOn/Offなんて簡単だと思って書いたけど、全然無理^_^
特に落ち込んでる時は全くダメね
意識的な切り替えはできないので、体を疲れさせるか、誰かと会ったりすることで何も考えない時間をつくれる気がする。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?