クリスマスと母のこと
たくさんの煌びやかなツリーが街に飾られるクリスマスシーズン。私にとって一番思い出深いツリーは亡き母が私と弟のために作ってくれた壁掛けのクリスマスツリー。
黄色のコーディロイの生地にツリーは緑のフェルト。雪に見立てた白いボタンにオーナメントの紐をかけて飾る。子供の頃はここにイルミネーションのライトをつけたりキラキラのモールをつけたりして、夜になるとこのツリーが壁に光っていて
サンタクロースを待ちながらお布団から弟と見上げて過ごすのがすきだった。
社宅の団地住まいで決して広くはなかったので立体のツリーは場所的にも予算的にも置けなかった。母はそれなら自分で作ろうとデザインしてミシンを踏んでくれた。若くして結婚した二人だし父の仕事柄、食べることはできても暮らしにそこまでの余裕はない。母は美大の短大を出ていたこともあり洋裁は得意だった。
私はキリスト教の幼稚園に通っていたのでクリスマスには毎年生誕劇があった。
12人くらいいるお星様の役をすることになり、母がママ友と協力して白衣で星の子の衣装を人数分作ることに。それがきっかけで幼稚園のママ友達から時々子どものワンピースやサブバッグを作る依頼を受けるようになった。そして新聞配りをして自力で学費を稼いでから立体裁断の学校に行き、数年後にはユニフォームのデザイナーとして仕事を始めることになったので世の中何があるか分からない。にしても母はアイディアとガッツの人であった。タイミングと時代も良かったのだろう。
私が無事学校に通えたのも母が働いていたおかげが大きい。
船乗りで魚獲りの父、デザイナーの母。不思議な組み合わせだ。
単身赴任もあったし途中から二人の目指す道は離れていってしまったけれど昔はとても仲が良かった。父が船の上から母に送ったラブレターを見てしまったことがあるのだけどアツアツだったし、娘としては赤面ものだった。
甲板の上に落ちてきたという白い羽根を天使の羽のように便箋に貼って
”オマエの元に飛んでゆきます” とかメッセージ書いてあんの。なに?笑
慌てて閉めたわ、手紙入ってた箱の蓋。熱すぎでしょ。
なんだかんだいっても両方の影響を受けてるんだなと思うことがある。
どちらかといえば好きなものや考え方は父に近い。
ギターにカメラ、地理や地図、漢文が好き。父は読書家だった。
私はミシンが好きじゃない。手縫と刺繍は好き。
母が踏むミシンの音をお腹の中で聞いてたからかミシンの音が怖いの笑。
彼女が私に着せようとしてたファンシーなフリルの服や靴下が苦手。
誰が陸上大会の日にNIKEじゃなくてピアノの発表会みたいな靴下履く?
テンション下がるわ。笑。それでも高校の時には母のデザインボードを
プレゼン前に見せてもらって意見を聞かれるのが楽しかったし、
時には撮影を見学させてもらったりもして、そこにはいつもとは違う母がいた。
母が原発性の小脳癌で1年半の余命宣告を受けて免疫治療をしたいと言い出した。高額で効くかも分からないものやめておけばいいのにと私は思った。
母は父に相談した。父が気前よく全額出したのには驚いた。
自分だって親の介護とかしてて余裕なんてないのに。
「私もう返せないよ?」と母が言っていたと父が笑ってた。
返せないと分かってる高額な治療なぜするのか。
全部知った上でなぜ別れた妻に出してやるのか。
もう理屈じゃなかった。それが父なりの愛なんだなと思ったし、
母も最期にそんなふうに頼れるのは父だけだったんだな、と思った。
クリスマスの話から逸れたけども。
このクリスマスツリーは私に受け継がれてる。
この数年は飾らなくなったけどまだクローゼットに大事に取ってある。
畳めるところもとてもいい。もみの木のステッチもとてもきれいだ。
白いボタンも、大小ちゃんと種類も変えてつけているところがすごい。
母は本当にアイディアの人だったな。
ゼロから何かを生み出す人だった。そしてデザインだけでなく自身でもパターンが引ける職人だった。着る人の働く人の動作を最優先するためにいつも何度も現場で聞き取り調査をしてからデザインしていた。強くて涙脆くて、ほんとはファンキーででもばかまじめ笑。私はソリが合わなかったけど、あんな風になれないしとても尊敬はしてる。
もうあと2日になってしまったけれど、やっぱりツリー出そうかな。
そんな気持ちになっている。