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妙齢ホログラム


40歳になる。小学校高校大学で出会った同級生の中にはお誕生日を迎えた友達もちらほら。

「ねぇねぇ40歳になるって、どういう気分?」

自分だって数か月後には40歳になる予定のくせに聞く。個人的には大人になってからの前後3歳程度はもう大体同じじゃない?と思っているところがある。誕生日をすでに迎えたかこれから迎えるのか程度は、繰り上げてひとまとめでもいいくらい。
でもまぁ世代として次の代に上がるのは事実で、節目だなという気持ちもなくはない。世の40歳たちはどんなことを思うんだろう?と知りたくなって、お誕生日おめでとうの言葉の次には「どんな気分?」と聞いて回っている。

ある友達は「人間ドックに初めて予約した。こわい。」と言う。定期的に会うメンバーのグループLINEでも健康第一のフレーズが飛び交った。確かに20代の頃には不安になることもなかった我が臓器の鮮度が、気にかかる機会は増えてきた。

ある友達は「40歳がどうとかよりも、結婚したいよねーそろそろ」という。出会いたい相手に求めている、いわゆる条件のような項目は限りなく少なく、かつ、柔軟に自分が変わる気があり、相手に絶対にこうであってほしいと強く望む事柄はないと言う。「やけんそろそろ出会えてもいいと思うのに」と。自分ひとりでは叶えられない願い事はどうすればいいんだろうねぇという話にもなった。自分で叶えられる幸せなら、すでに持ってるんだけどなぁとも。

同級生である夫は「介護保険の支払いが始まるのがいやだ」と言う。結構デカいよ、と。そうね、現実的な変化もあるね。

ある友達に同じことを聞いたら「焦る」と返ってきた。「もう40なのに、まだこんな自分だ」と。”こんな自分”どころか、子ども3人を育てながら仕事では社内で頼りにされている存在のようだし、さらには今後自分がやりたい仕事に向けてそれはそれは熱心に勉強し行動している。むさぼるように日々前進している彼女が「焦る」感覚でいるとは。

40歳って、思えば遠くきたもんだぁと青春を振り返ることもできる。それでいて残りの人生を考えると、ありがたいことに、平均寿命まではこれまでの人生と同じくらいの年数があるとされている。時間はまだまだ続く。
もちろん個人差はあるけれど、人生の方向性はなんとなく決まってきているような。いやいや、これはなりたかった大人じゃないぞと思う気持ちが、大なり小なりあるような。なにか始めるなら今だぞっていう気もしてくる。いやー、でもこのくらいが自分には合ってるか?と感じる日もある。おだやかに過ごせた1日を心地よく思う日も。
妙齢とはよく言ったもので、いろんな場面や見る角度によって感じ方がホログラムみたいに変化するお年頃なのかもしれない。その混ぜこぜの心模様はまさに「妙」。

大学の頃、ハタチのお誕生日をお祝いし合った友達が「40ってハタチの倍やん!」と言った。お、おぉ…そうだね…そう考えると年月の重さを感じるような。いや、逆にあっという間にひょーいとここまできちゃった気もするから年月は軽かったとも言えるのかな。
あの頃「ついにお酒が飲めるね。」「たばこだってほんとは吸えるね。」と浮足立ってケーキの前でデジカメでピン留めした「ハタチ」は、40歳になる現在への折り返し地点だったことになる。

自分が40歳になることには今まだ特別な感情を持てていない。39歳になったころからほぼ40な気持ちで暮らしてきたようにも思う。「ついに40歳になるね」と、ニヤニヤ顔で言ってくる人もたまにいる。なにかこちらに大きなリアクションを求めている風だけど、それに応戦するほどの感情がまだない。
でも折り返し地点だったあの頃より「やる」「やらない」を自分で決めることができるようになったなと思う。決めるための勘も身についてきた。そして「今はまだ決めない」という選択肢を自分に持たせてあげられるようにもなった気がする。

どの方向を選んでも、どの方角から振り返っても妙齢の「今」という地点がホログラムみたいに輝いているといいな。未来の自分が、微かでも灯りを放つことができれば、きっとその頃には過去となった「今」も光ってくれる。光を返してくれる「面」が多いほうがキラキラはきっときれい。
40歳の1年に限定しなくてもいい。この数年の妙齢シーズン、どこかを削ったり磨いたりしてみよう。のっぺらぼうで過ごすより、的外れでもやみくもでも「今」を造形していけば。80歳になった頃、折り返し地点となる今を見返して「きれいだなぁ」と思えますように。


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