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最強な母と問題児の私

前前回に私の2人の祖母の話を記事にしましたが
やはりご紹介しなくてはという存在が

私の「母さん」です

私の母は、最強です。

なんといっても
自分の腹を三回切って私たち3兄弟を産み
3兄弟を育ててくれた母。

兄弟は、兄、私、弟なのだが
3人とも、血液型は違うし、性格なんて
誰も似ているやつなんていない

そして娘の私からすれば
兄弟の中で一番の問題児は私だと思う。

よく母から言われるのは
「あんたが一番荒れてた」

間違いねえ!その一言しかない。



時は遡り
私が幼稚園の年中か年長の時
私がいきなり

「幼稚園に行きたくない」
「お母さんがいるなら行ける」

とごねた

母は嫌な顔せず(私の記憶の美化かもしれないが)
毎日一緒に幼稚園に行って
終わるまで、職員室で母は私を待っていてくれた

後々わかったことだが
その頃、ちょうど周りには言っていないが
母のお腹に新しい命を授かったばかりだったそうだ

後にその新しい命は
私の愛すべき可愛い弟になるわけだが

誰にも言っていないのに
私が「赤ちゃん返り」をしてびっくりしたと聞いた


でも何がすごいかって
黙って幼稚園が終わるまで
私を待っていてくれる
その母の根気と私に対する向き合い方だと
今になって思うことがたくさんある

弟が生まれる頃には
すっかり「お姉ちゃんモード」に入っていた私

でも再度やらかすのが
私である

小学生中学年
私は半不登校になった

しかし今考えると
自分が不登校していたという意識がなかった


でも母は
強制的に行かせるわけでもなく
ましてや怒ることも無かった

母が私にこう言った

「弟の幼稚園に一緒に行く?」

弟はその時、ちょっと変わった
すごくいい環境の幼稚園に行っていた

私は躊躇わず
弟と母と、その幼稚園に行ったのだった

変わった幼稚園だけあって
私が行っても
先生たちは顔色ひとつ変えず
「一緒に遊ぼうか!」と小学生中学年の私を受け入れてくれた


そこで見た、幼稚園の先生のサポートや
教育方法が、「保育士になりたい」という
後の私の将来の夢に繋がることになる

そんな日々を送って
学校もたまーに行って
たまーに楽しんで
問題児も中学生になった


中学はその当時
私の学年は「The 荒れている」学年だった

そこでは割と真面目な方だったと思っているが
スカートは短い
リボンはビローン
ブラウスの第二ボタンまで開ける

口はものすごい悪い
勉強は興味あるものしかしない
テストの点数なんて気にしない
学力テストは成績に関係ないから受けない

嫌がらせはされるけど(今思えばいじめかな程度)
やられたらやり返す

たぶん母は
「このクソガキ…コノヤロウ…」
と思っていたに違いない

けれど、母から
「勉強しなさい!」と怒られた記憶が全くない

母は勉強なんてそっちのけで
遊び、部活を楽しんでいる私に

「困るのはあんただから」

と言っていたのが印象的だった


自分の学力にあった高校を選んだ兄と
家の近くで学力もそこそこで平和な高校を選んだ弟

しかし
私は「地元のヤツが誰も行かない高校」を選び
当時は珍しかった、単位制かつ全日制の高校に入学

ここでも

「変わったヤツ」
「人と一緒は嫌だ」

という変人の片鱗を見せる問題児の私だが

母はというと
「学費も安い、制服代もかからない」
という事で応援してくれたのだった


しかし
私は割と真面目でやるとなったらやる
「やれば出来る子」で
「いつもはやらないだけ」人間なので

平均4年で卒業の高校を3年できっちり卒業し
夢であった「保育士」を目指し
保育科のある短大に無事入学したのだった

しかし、そこで変人な私は
世間で言う「普通の道」に足を踏み入れてしまった


そんな世界が私合う訳もなく
入学して半年で通学できなくなってしまった


母は異常な急降下をしている私に言った

「病院に行ってみよう」

そこで精神科、心療内科といくつか病院に行って
今もなお通っている心療内科にお世話になることに

そこで告げられたのは

「うつ病」


そこから私は良くなるどころか
どんどん、急降下していく

ご飯は食べられない
眠れない
雑音が脳に刺さる
急に泣き始める
希死念慮
そして、自傷行為


しかし、母は
私の急降下に引きずられることなく
温かく、ちゃんと話をして
私と向き合ってくれた


なんだか、私の変人武勇伝が長くなってしまったが

しんどいと泣いた日、母が抱きしめてくれなかったら
夜中に私が起こした時、母が起きてくれなかったら

私は笑顔を今も取り戻していなかっただろう


私らしく笑っていられる日々どころか
私が生きている未来なんて
あの時の私には、全く見えていなかった


でも、生きてさえいればいい


そう言ってくれたのも母だった


希死念慮が消えない時は
私の脳裏に、タフで優しい大好きな母が泣いている姿を想像して

悲しませたくない
母まで居なくなるかもしれない

そう自分に言い聞かせて
なんとかここまでしぶとく生き延びてきた


今でも頭が上がらないくらいに
心配をかけ、大迷惑をかけてきている
問題児の私だが


母が私に小さい頃から変わらずに
真っ直ぐ、優しく、時には厳しく
向き合ってくれたように

私自身も

相手に真っ直ぐ向き合いたい

そう思って
今こうして、重い重い腰を上げて

大切な人たちの心強いサポートのおかげで

「私らしく生きる」ことを
実行に移している


母は強し。
本当にそうだと思う。


いつもありがとうの気持ちで
いっぱいだが

これからも問題児の私は
沢山心配をかけてしまうだろう

それでもきっと
真っ直ぐ信じて
向き合ってくれる母は
ずっと変わらず、私の心に寄り添ってくれるだろう


まぴこ
(Twitter:corazon_mapiko

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