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「"自由に生きる" というレール」の上の人生

私はこれまで何でも自分で自由に選択させてもらってきた。
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沢山してきた習い事は全て自分からだったし、好きな部活をし、行きたい高校や大学に行き、好きな勉強をして、そして勝手に退学もした。
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全部が全部希望通りに好き勝手できたわけでは無いけれど、何かを強制させられることはなかった。
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と思っていた。しかし、果たして本当にそうなのだろうか。ひょんな事から疑問をいだき始めた。
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昨夜は大学受験をした時のことを友達に聞いてもらった。
未だに思い出すだけで悲しく悔しくやるせない気持ちになる話だ。思い返しながら一人で泣いていた。
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消化しきれない想いを友達が聞いてくれたおかげで気分もスッキリしていた(友達にそういう話ができるようになったんやなぁ)。
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話の内容はさておき、私が自ら決めた道を歩んできたことは間違いない。どんな経緯があったにせよだ。
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しかし、スッキリした頭で私はこんなことを考えた。
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「私の人生も "自由に選択をする(させられる)" という一種のレールの上の人生なのかもしれない」と。
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私は親についてよく周りの人から褒められたり羨ましがられたりする。周りから見ればとても理解のある素敵な親だそうだ。
でも多分それは違う。
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私の決定に口出しをしないのはむしろ理解がないからだ、と思った。
私の事を知らなさ過ぎて口出しができないのではないか。だから、私の好きにさせるしかなかったのかもしれない。
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(その為に多くのお金や苦労をかけたのは言うまでもない。もちろん親から子への無条件の応援もあったに違いない。そこは感謝しなければならない。)
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しかし、本当に私の決めた進路は純粋な私の意志だったのだろうか。
よくよく考えてみればそれはあり得ない事だと気づく。
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例えば3歳の私が「ピアノと英語を習いたい!」と言ったのには3歳までに触れた何かが影響しているはずだし、私が「絶対にここの吹奏楽部に入るんだ!」と高校を選んだのも親の影響で演奏会を聴きに行ったからに他ならない。
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特に幼少期は触れるものを自分では選べない。親が用意してくれた環境の範囲内でしか出逢えない。
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ちょうど勉強中の人格心理学という分野で興味深い話があった。
『私達が自分自身として捉えている自己でさえも、社会的に構成されたもの』だと言うのだ。ゾッとするような話だが否定はできないだろう。
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人の物を奪ってはいけない。
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これは友達のおもちゃを取ったときに親から怒られたとか、絵本やアニメで人の物を奪った悪者がヒーローにやっつけられているのを見たとか、道徳の授業で教えられたから、私達はそれを悪い事・してはいけない事だと判断する。
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こんな風に自分なりの主体的な判断だと思っていても、実は社会的に構成された規約であり、教えられたものなのだ。
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この話で思い出されたのは、これまたちょうど勉強中のビーガンに関する事だった。環境問題や畜産業、ビーガンの考え方に興味を持ち始めて色んな動画や色んな人の意見を調べていると、必ずビーガンに対するアンチコメントが目に入る。
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ビーガンというだけで全く根拠のない誹謗中傷がされている。イスラム教というだけでテロリスト呼ばわりされるのと全く同じだった。
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私はビーガンでもなければ何かの宗教に入っているわけでもないが、アンチコメントの中にはどうしても納得できないものがある。
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具体的な例の一つは
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「自分がビーガンだからって、生まれてきた子どもに肉を食べさせないのはどうかしている!何も選択できない子どもに菜食を強要するのは虐待だ!」
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というような意見だ。こういった意見の何が許せないかって、自分の常識だけを常識だと信じ切って疑わないところ。
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私は大学に入ってコンテンポラリーダンスというジャンルの舞踊に出逢ったとき、 初めは「こんなものはダンスじゃない」と感じた。
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けれども単にそれまでの私の "ダンス" という概念に当てはまらなかっただけで、今ではちっぽけな狭い世界でしか判断できなかった自分が恥ずかしく思う。
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さらに頭を殴られたような衝撃が走ったのは、大学中退後に改めて西洋音楽史を勉強したときだった。
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1~2歳からリトミックを始め、その後17年に及んでずっと楽器をやってきたのだ。そうでなくとも音楽なんて胎児のときから絶えず触れているし、それに加えて学問としての音楽も小学生から飽きるほどやってきたはずだ。
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それなのに、それなのに、悲しいかな20年間で培った音楽の上手い下手を決める基準(リズム、ピッチ、ドレミファソラシド…もう本当に全部!)は広い世界の中の西洋で生まれたものに過ぎなかったのだ。
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教科書の初めの1ページで私の20年間の "常識" はいとも簡単に崩れ去ってしまった。と同時に、私っておんちやな…とがっかりする必要もなくなった。
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西洋音楽的な規範からずれているというだけで、そもそも音に区切りなんて存在しない。
1と2の間には1.0000008とか1.795231などの無限の数が存在するように、ドとレの間の音を無視してドの次をレだとするほうが不自然なのだ。
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ダンスにしろ音楽にしろ、たまたま私が習い事として身近に始められるものが西洋のものばかりだったというだけだった。
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尺八は音程が不安定だなあと感じたり、何でダンスなのにカウントをとらないんだろうと疑問に思ったりするのは、私の中で形成されてきた西洋的な "概念" に無理やり当てはめて考えようとしていたからだった。
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そろそろ芸術の話はこの辺りにして、何が言いたいかというと "常識" なんて所詮もろいものなんだな〜という話。
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だからその行動が良いとか正しいとかそういった判断は抜きにして、個人的にはこれまでの "常識" に疑問を抱き考えた上で別の行動を選ぶ人のほうが、"常識" を振りかざす人よりよっぽど素晴らしいと思う。
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もしも "常識" を過信しなくなったなら、先に述べたアンチコメントが納得できない理由も理解はしてもらえるだろう。
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確かに何も選択できない子どもに肉を食べさせないのは親の押しつけかもしれない。こどもの選択肢を奪っているのかもしれない。
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けれど、もしその事を批判したいのであれば、「肉を食べさせる」という事もまた押しつけであることに気がつくべきだ。「植物性の物だけを食べて生きる」という選択肢を奪っていることになる。
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これは単なる揚げ足取りだろうか。
どんな分野であっても "専門家" 達の意見や研究結果が真っ二つに分かれることは少なくない。
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専門家でさえ意見が割れるのだから、今の例でいうと菜食がどうとか肉食がどうとか、私達は自分が最も良いと信じる方を選択する事しかできない。
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だから、まずは選択する為に "常識" がいつも常識とは限らないと知ることからだと思っている。その後の選択は個人の自由だ。
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勉強の話ばっかりかよ、本題どこいってん(通常運転)のツッコミはもう少し後にしよう。
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ビーガンについて勉強していると、必然的に畜産業についても知ることになる。
それを知ればビーガンの人達がビーガンになるのは当然の流れだと思える衝撃的な内容ばかり。
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私にはその現状が、かつての人種差別や奴隷制度が当たり前だった時代と重なって見える。
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今日にも悲しいことに差別はあるけれど、それが "いけないこと" だと私達は教えられている。だから私達は差別をなくそう!と声高らかに主張できる。
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しかし、(特にアメリカの)歴史をみてみるとどうだろう。奴隷制を不道徳だと主張する運動はあったものの、法律に守られた肯定的善として奴隷制が認められていたのである。
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中には奴隷制を廃止するほうが社会的・経済的に害があるという主張すらあったそうだ。
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人種や男女差別、奴隷制などの廃止に至った経緯は、信じられない辛い歴史として私達は本や映画で学ぶことができる。
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それは、そういった「差別が "非常識" だというのが私達の "常識" 」だからだ。
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今もなお、まだまだ "常識" として根付いている様々なものを覆そうと声を上げている人達がいる。
そういう人は得てして "変わった人" というレッテルを貼られがちだ。
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"常識" が正しいと思っている人(もしくはそれが正しいかどうかなんて考えたことすらない人)から見れば、その "常識" を間違っている!と主張する人達だからだ。
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でも、過去には実際そういった "常識" が覆されてきた。覆される以前の "常識" と "非常識" は今では見事に逆転している。
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私達の "常識" が未来の教科書には "非常識" として記されているかもしれない。
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具体例を膨らませすぎて脱線したけれど、要は自分の思考は全て周りからの影響を受けて作り上げられたものだということ。
(かなり最初に書いてましたよね、これまでの長文何やったんですかね?)
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だから、私自身が行ってきた選択も元を辿れば全て誰かによってそう選択させられた事になるのではないか。
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私の人生はとても広い意味で「レールの上の人生」で、いくら自らの意志でレールから脱線しようとも(人生も文章も脱線が好きなのかな)変えようのない逃れられない事実なのだと悟った。
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まっすぐ行くと見せかけて急にハンドルを切っても、きっと私の足元には「まっすぐ行くと見せかけて急にハンドルを切るレール」が用意されているんだ。
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全部運命として決められているんだろうな。いくらもがこうと神の手中なんだろうな。
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はい、迷子(いつも通り)。これもきっとグニャグニャした形のレールだね。
そう考えるとレール上の人生も悪くないな。
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だって、ジェットコースターを「こわ〜い」って言いながら楽しめるのはレールがあるからだもんね!あれがもし道路で暴走する車だとしたらそれこそ生きた心地がしない。
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だからレール上の人生は、ガタガタ揺れても、逆さまになっても、落っこちる先が見えなくても、「ぎゃ〜もうしぬ〜!」ってヒーヒー叫びながらも楽しめると言うことだ。
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最後はちゃんとゴールに戻ってきて「こわかったけど楽しかった」って言えるから。
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今日はあまり逃げのカッコ書きを使っていない!わお。途中でもう一人の私がツッコミいれそうになるの必死で抑えたけど、後半は疲れてちょっと出てきはった 笑
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ちなみに久しぶりの4,000字超えはかなり疲れて読み返す気力がありません…。
とはいえ、やっぱり達成感はすごい。
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何年も前から何度も日記に書き溜めてきたような事も、昨日ふと考えた事と上手くリンクして日の目を見る、かもしれない。読んでくださる人がいたのなら。
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っていうか、いつも書きたかった本題のほうがおろそかになって、枝葉がメインになってしまうのなんで?そもそも本題自体は数百字で終わるんやけど…って書き出したらまた長くなりそうやし、前にもこんな内容noteに書いた気がします。
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これまでの日記には内容がほとんど被ってるものがいくつも存在するだろうし、きっとこれからも何回も書くんだろうと思います。そして今日のnoteを見つけて、前にも同じこと書いてるやん!!でもここの表現はこうした方がいいのに!って文句言いながら笑って読むでしょう。
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はい、おわり!

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新まおり Maori Atarashi

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