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父と母のこと

最近は料理の作り方も忘れて、赤ちゃんのようにすぐ眠くなり、
寝ると記憶がリセットされて、いつも新鮮に新しいことを感じるようになった母。
私の子供の頃は、風呂に入るときのパンツすら母に持ってきてもらい、
家事は一切やらなかった父は、
今そんな母の食事を作り、身だしなみを整える。

近い将来、二人とのお別れが来ることは自然の摂理。
その存在も記憶も、いつかは消えてしまうけど
星野源の「光の跡」を聴きながら、ふと少しだけ残しておきたいと思った。


子供の頃、父はすぐ怒る人だった。
母は「瞬間湯沸かし器」とあだ名をつけてからかっていたが、
中学校の体育教師で生活指導主任だった父は、教え子たちにも怖がられていた。でも教え子が家に遊びに来たりもしていたので、怖がられつつも慕われていたのだと思う。

かつての我が家は2階建てで、京都池田屋の階段のような、2階まで一直線の階段を使って登り降りしていた。
ある日、父と話をしながら後ろ向きに階段を降りようとした私は、池田屋階段落ちの勢いで、ゴム毬のように2階から転げ落ち、終点にあったガラスの引き戸をぶち破ったことがあった。
何が起こったかわからずぼんやりしてると
「なんで落ちるんだ!」
という父の怒号が飛んできて、我に返って号泣した。
今思うと、父はめっちゃ焦っていたのだと思うが、
私は階段から落ちたことより、父の怒号が怖くて泣いた。
幸いガラスの引き戸には木の桟が格子状に入っていて、ガラスをぶち破った割には身体に傷一つなかった。もしかしたらちょっとアホになったかもしれないが、特に異常も見当たら無かったことを、世界中の神様に全身全霊で感謝したい。

話がそれたが、とにかく、色々な感情を怒ることで表現する父だった。
今は全く怒らないので、人は変わるもんだと思ったし、本来は優しい人だったのかもしれないと思う。
ちなみに良く怒る割には私には甘く、おねだりすると結局色々買ってもらえてしまうので、子供ながら、おねだりは極力しないようにしていた。

母はそんな父とは反対にあまり怒ることはなく、のんびり屋だった。
父の猛アプローチで結婚した母は、結婚当初は料理もできないお嬢様だったらしい。
線路端で電車が通ると良く揺れる4畳半のアパートで、風呂無し洗濯機無しの新婚生活は、父の6尺ふんどしの洗濯が大変だったと言う話を良く母に聞かされた。
私が中学生の頃、急に美大の通信教育を受け、子育てしながら卒業したり、革工芸の作品作りに熱心に取り組み、なんだかすごい賞を取ったり、のんびり屋のくせに、やるぞと決めたらのめり込んで頑張り抜く人だった。
人の良いところを見つけるのも上手な人で、人の悪口を言ってるところを聞いたことがなかった。あと料理に対してチャレンジャーで、味噌汁の中にはピーマンやセロリが投入され、昭和の時代には珍しい「にんじんゼリー」を作ったりと家族の舌を驚かせたりもした。

そんな父と母は、あまり言い争いをすることがなかった。
父は俗に言う亭主関白だが、道路を歩くときは必ず車道側をあるき、旅行の時は自分の山岳用のリュックに母の荷物も詰め、母に荷物を持たせることがなかった。
夏、家族でお昼寝する時には、母のために腕枕をし、母が寝ている間はずっと手を動かすことがなかった。
だから怒りん坊の父は、人のために尽くせる人だったし、母をとっても愛していたのだと思う。まあ、先生やってたんだし、人の世話が好きなんだろうな。

今はその愛する母の世話を、今度は父が母に怒られながらやっている。
色々なことがわからなくなった母だが、私が行くといつもニコニコしている。でも一番身近で信頼できる父には怒るらしい。
きっとそれが色々忘れてしまった母の、愛情と信頼の表現なんだと思う。

「なんか、愛されてるんだね」
と夕飯を届けながら私は父と話す。
「怒られてばっかりだよ。」
笑ってそう言いながら、母のパンツをたたんで枕元に置き、食事を作る父。

このまま穏やかにこの場所で二人が長く暮らせるよう、
私を階段落ちから救ってくれた神様に、またお願いしてみようと思う。


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