「めちゃくちゃ愛想がいいひと」が考えていること(フィールドノート)
人と話したあと、とくにさまざまな意味で「この人は」、と思う人と話したあと、自分の言動について「独り反省会」をすることがよくある。
なんであんなこと言っちゃったんだ、キツかったかもしれない、こういえばよかった、なんて不愛想な返事をしてしまったんだろう、どうしてこんな薄いリアクションしかとれないんだろう、などとぐるぐるぐるぐる、大反省会を繰り広げる人は少なくないはずだ。
そのとき、小巧いことを言えなかった(プラスにできなかった)ことよりも、やってしまったこと、言ってしまったこと(マイナスにしてしまった)ことへの反省が殊更おおきいし恥ずかしい、ような気がする。日本人だけかと思ったら、イギリスでも同じような話を聞いた。「自由」がテーマの短いライフストーリーの前説としてそんな話が出たので、あぁコミュニケーションで気になるポイントも、それが精神的な自由と結びついているという発想も案外同じなんだなと思った。わたしの場合、反応が薄かったかもしれない、というのと、もっと相手の話に耳を傾ければよかった、と思うことが多い。なぜなら、当たり前だが人は自分が気持ちよく話せない相手とはあまり話したくないからだ。わたしは特別多くの人と友達になりたい(なれる)とは思わないが、友達になることができた少数の人には、こいつと話したい、と思われたい。思わせたい。どうやったら、愛想よくいられるだろうか。また話したいと思ってもらえるだろうか。
人の魅力は愛想だけではない、ってのは十分わかっている。わたし自身、どっちかというと愛想が悪くて陰があるくらいの人は好きだ。会話の中でこだわりやコンプレックスが見え隠れするとき、あるいはこの人の応答、変だなぁズレてんなあと思ったとき、その人のこともっとめっちゃ知りたい、と思う。
でも、だからこそ、常に愛想よくいるってどうやってやるんだろう?という謎は日々深まっている。
不愛想をひいきしておいて矛盾しているようだが、愛想がいいというのは、まことに素敵なことだ。おはようと言ってにっこりおはようと返ってきたら最高だし、いらっしゃいませーに対して(ペコッ)てしてくれる人には思いっきりサービスしたくなる。というのは夜が来たら朝になるくらい当たり前のことよ。
この子の応答はわたしがみる限りいつも完璧に愛想がいい、というともだちが一人いる。名をMという。べらぼうにテンションが高いとか、よく喋るというわけではないのに、いつも機嫌が良くて、友達をものすごいスピードで作る。彼女の引力には逆らえない。なんでも気持ちよく話させてくれるから、嬉しかったことも大変だったことも、その日あったことは全部話してしまいたくなるような人だ。
最初のうちは、失礼ながらただ努めて明るく振るまっているのかな?と思っていた。そういう人には時々出会うし、まだ知り合って間もないから、わたしが「外」の人だから、いつでも愛想よくいてくれるのではないか、と。つまり世間的には八方美人と呼ばれるまことに人間的な現象で、その人のSNS的な明るさを見ているだけに過ぎないのではないか、つまりもうすぐ嫌な(というより普通な)部分も見えてくるのだろうなどと思っていた。
違った。甘かった。わたしは段々と彼女の狂気的な機嫌のよさが張りぼてでないことに気づき始める。彼女の「八方美人」は職人技であり、寮でまる2年同じ空間に暮らそうが、将来のことについて話そうが、授業の課題がいかに大変かということを熱弁しようが、先刻おもいついたギャグを披露しようが、なにをしても仮面がはがれることはなかった(この時点で、わたしが彼女にあらゆる種類の話をしてしまっていることがわかる)。生まれ持ってか後天的にかわからないが、彼女は意図的に「いい人」を演じているのではないようだった。彼女との会話は一分の隙もなく快であるし、久々に会っても「この人はわたしのことを好きでいてくれる」と感じさせずにはおかない(錯覚であったとしても)。「話しかけちゃいけなさそうなとき」も、わたしが知る限りにおいて、ない。
しかしわたしは疑り深い。というより、自分の愚かで限定的な思考世界を出ることができないため、この「完璧さ」にはなにか合理的な理由が欲しくなってしまう。だってあまりに狂気的なのだ。たいがいの人間は、他者を不快にしかねない要素をいくつか抱えて生きている。思考、人格、言動、人はみな醜い。わたしはその歪さや偏りが好きだから、社会学が楽しいのだけど。だからわたしは、いや、いくらなんでも「これ答えんのめんどくせぇ」とか「コイツ嫌い」と思うことの一度や二度あるのではないか、実は夜な夜な藁人形を打っているのではないか、ストレス発散のためにコーヒーを死ぬほど飲んでいるのではないか、などと邪推を繰り広げるが、どうやらそういうことでもないらしいのだ。
彼女のバチボコに明るい世界観から繰り出される言葉に、ときどき目を潰しているわたし(沼の底在住)であるが、そんなMには羨ましさをはるか通り越して、人としての興味を禁じ得ない。彼女はいかにして一緒にいる人を快適にさせるコミュニケーションを体現するのか?人と会うときに何を考えている?会話のなにが「この人はわたしを好きでいてくれる」と感じさせるのか?
気になることは、調査すればいい。キッチンで洗い物をしながらMの思考回路に興味がある、というようなことを言ったら、調査をさせてくれることになった。
水曜日のダウンタウンの「説」と、論文になる社会学調査の間くらいの濃度でやってみる。ちなみに水ダウはとても味わい深い「説」を時々出す。わたしが一番好きなのは「ボックスティッシュ向けられたら、特に必要じゃなくてもとりあえず1枚取っちゃう説」だ。
さて、方法としては、彼女のライフヒストリーや人間観の聞き取りである。とはいえ、中身のない自分語りや個人の内輪の話を臆面もなく垂れ流すタイプの語りを日ごろから目の敵にしているわたしにとって、インタビューの文字化は難題だ。しかし、じっくりと時間をかけて聞き取られ、書き取られた個人の生活史は大好きである。そこには明白な違いがあるはずで、少しでも生活史的な趣を湛えた記録にしたい・・・・・。そこで彼女の話を4時間半ほど聞かせてもらって(M本当にありがとう)、「これは敵わないな」と思ったポイントについて、わたし自身との比較をしながら列挙していきたいと思う。しかし話を聞いて非常に興味深く思い同時に反省したのは、わたしが「コミュニケーションの達人だ」と思っていたM自身、その方法しかできないということに窮屈さと苦しさを感じてもいたという事実だった。インタビュアーが時々喋りすぎているのはご容赦いただきたい。
なお、友人Mには①noteに投稿すること ②名前は伏せるが、わたしが実名で書いている以上、共通の知り合いには誰のことかわかってしまう可能性が高いこと をインタビュー前に伝えて了承をもらい、投稿前の原稿をチェックしていただいた。
①観察眼が鋭いということの意味
やはりコミュニケーションの上手い人は人の話をよく聞いているし、
・単純にべた褒めするのではなく、相手が褒められて嬉しいこと(時間や労力をかけていること=勝負していること)を抽出する
・まず相手を高めてから自分のことを話す
といった具体的な示唆を与えてくれている。
②搾取の構造
しかし、この時点でわたしは少し動揺していた。「コミュニケーション能力の高い人」とわたしが勝手にラベリングしていた彼女にも、一筋縄ではいかない生きにくさがあるという事実にふれたからだ。身体にあらわれた感情を読む能力に長けていることで、「最適解」が分かる。分かってしまう。Mにとって悪意や不満といった負の情報も一緒に受け取らざるを得ないことがしんどい、という。
そしてそれは、受け取りすぎてしまうということ以上に、端的に言えば「搾取」と闘っていることになるのではないか、という仮説が頭をよぎった。
おばあちゃんに先を越されていたが、思ったよりも強い同意が返ってくる。だとすればこれはとても疲弊する話だと思う。Mは無意識レベルで、相手の求める反応の最適解をたたき出している。自分が気持ちよく話しているとき、相手を搾取していないか。わたしはこれまでMのやさしさを搾取していなかっただろうか。「誰かが居心地がいいときは、ほかの誰かが我慢しているとき」という言葉(by東京03飯塚さん)も脳裏を掠めた。この時点で「たくさんの人から愛される愛想の良い人はなにを考えているのか?」という自分の問いの設定の甘さに愕然とし、恥ずかしいと思った。聞き上手は、自分の思いもよらないところですり減っているかもしれないのだった。見たいものを見るために行うフィールド調査にならずにすんでよかった、と思いたい。
しかしある意味で彼女は、自分を消費されることに対して敏感だった。Mは人の愚痴や悪口を聞くのが苦手だし、自分では絶対に言わないという。怒り心頭したできごとについて聞き相手になるのは構わないが、誰でもいいから聞いてほしいことの矛先になるのは御免らしい。
わたしは愚痴や文句もコミュニケーションの一環だと思っている節がある。自分自身が人やものごとに対して好き嫌いが激しいため、自分に対しても同様に好き嫌いがあって当然だと思っている。が、Mは「嫌なところが見えたら、逃げ」るし「やっぱり自分の評価がさげられるのは怖いし、しっかり傷つく」「(嫌われたら)どうしようどうしよう、とパニックになる」という。わたしも人から嫌われるのが怖かったら、もうすこし社交的になれていたかもしれない。
それでも、Mはやはり「giving=贈与的」でいたいという。
このアメージンググレースの作曲秘話みたいな「贈与」の話はおもしろい。彼女は贈与を受けて贈与を返さざるを得なくなり、それを受けた周りの人間はMに贈与を返したくなり、それは友情という形をとる。親愛と贈与の深い結びつきを垣間見る。
③否定のメリハリ
この「小さな否定」をしないというのは、とても難しい。言っているそばからわたしが「いやでも」で文を始めていることにお気づきだろうか……笑。意見の比較的強いわたしは、向き合おうとすればするほど、話を闘わせたくなるし、そういうモードのときは、相手にも闘ってきてほしい。言いくるめ、言いくるめられ、論点を微妙にずらしながら進んでいくアウフヘーベンが大好きなのだ。お互い言外に「このひと、おもろいな」という雰囲気が出来た人とは、その後も長く続く。でもよく考えれば、闘いたくないモードの時間の方が長い。なるほどMは闘いたくないモードの人、つまり大半の人の大半の時間に愛される。
でも、エピソードで彼女が教えてくれたように「つっかかってこないキャラ」として理想化されるのもまた窮屈だ。なぜわたしたちは人にキャラを着せることを止められないのだろう。
④言い切らない力
ここまでの会話でも表れているのだが、わたしの分析体質に対する、Mの話の展開の巧さである。聞き取らねばというという気負いもあってか、「わたしってこうだよね」「Mってこうなんじゃない?」と仮説を投げまくる出しゃばりインタビュアーに対し、それを受けて(時に微妙にかわして)エピソードに持ち込んだり、話を発展させるのが巧い。分析はときに相手を黙らせるが、Mの話は具体的なようで抽象的であり、さらに言葉を重ねたくなるいいパスである。そのルーツを垣間見たのは、家族との会話について話していた時のことである。
ここには、コミュニケーションの極意が詰まっているように思う。幼児教育の文脈で「答えを簡単に与えたりネットで調べさせたりするのではなく親が一緒に考えてあげよう」みたいなものがあるが、大人同士の会話でもこれは効果的なのである。この時に思い出していたのは、いぜん養老孟子氏のインタビュー記事で読んだ「わかっていても言わない」という態度についてだった。
議論の余地を残した曖昧な表現には、言葉を重ねたくなる。わたしは今まで、真面目に話すとは大人であろうが子供であろうが考えていることをまるっと共有することだと無意識に考えていたが、たしかに言い残して相手にパスを回した方がいいのかもしれない。
英語になったときに「わたしもしかして喋らせるの上手いかも」と錯覚するのは、英語話者がよく喋るということ以上に、たぶん日本語で言語化できることの8割くらいしか言えていないから、相手が補足説明したくなるというからくりなのかもしれない。
なぜ我々は友達という檻から逃れられないのか?
たしかに友達は人生の喜びかもしれない。しかし我々は友達をほんとうに持っていると言えるのだろうか。友達の友達性を搾取していないだろうか。させていないだろうか。友達に「キャラクター」を着せて、窮屈な思いをさせていないだろうか。友達の少ない者は多い者の秘密を知りたがり、多い者は少ない者の関係性の深さを欲しがる。なぜ、こと若い我々は、「友達」という「鉄の檻」から逃れられないのだろうか。
この問題には、なぜ友達が多い方がいいという価値観が存在するのか、友達との親密な関係を外にアピールしたくなるのはなぜなのか、そのくせその人と自分を比べて惨めに感じたり、あるいは優れていると感じてひそかに優越感にひたるといった行為がなぜ生まれてしまうのかというような、多くの問いを孕む。あるいは異性と2人の影や、手や服などを写してSNSの「友達」にみせる「匂わせ」という行為も非常におもしろい自己呈示の形態だが、今回は置いておこう。
答えは一見簡単なように思える。しかし「人はみな人とのつながりのなかで生きていて、みな愛されたいからだ」というイケてない小論文みたいな安易な結論以上に、複雑な心象がここには折り畳まれているように思うのだ。
SNSが可能にした「ただ繋がっている」という状態、あるいは特定の宛先をもたない、プライベート状態(だれと、どこで、なにをしている)の開示は、目の前にいない友達とのコミュニケーションが手紙と電話だった時代にはありえなかった。そして繋がっている「友達」の「近況」を頻繁に目にしていたとしても、いやその変わっていく姿を見ていればこそ、まったく近況を知らないときよりもむしろ「遠くなった」と感じる。行動、ライフステージ、一緒にいる人、表現、すべてのへだたりが可視化されてしまうからだ。「この人、ずいぶん変わったな……次会ったとしても、話が合わないだろうな」という感覚。きっとSNSがなくて、ばったり会ったとしたら、互いの変わりように(あるいは変わらなさに)びっくりしつつも、近況報告はそれなりに盛り上がるのだろうな、そんな感覚もある。実際、会って話してみたらSNSに表れているほど変わってはいなかったことに、密かに安堵することもある。
テクノロジーが生み出したこのへだたりの可視化と「繋がっているのに遠く感じる」矛盾は、なんだか人びとをより寂しくさせ、繋がりへの過剰な期待と渇望を生み出しているようにわたしには思える。
高校時代、課題のために文豪の交友関係を洗っていたとき、たとえば太宰を支えた井伏、檀一雄、今官一なんかとの交流を読むにつけ「こういう友達関係憧れるわ・・・・!!」と思っていたことを思い出す。大人になって物事がすこし複雑になってからこそ、ダメな部分も、プライベートのあれこれも全て共有できる「親友」っていいなと。高校の友達をこれからも大事にしなきゃと思うとともに、お互いがあまりに変わってしまったらどうだろう、と怖くもなった。小学校低学年のとき毎日遊んでいた親友(途中で引っ越した)とは、SNSで繋がっていても、あの頃のように話せる自信はない。その実感から、親密な友人関係がやがて変質し、失われてしまうことをわたしは恐れた。恐れている。
しかし、わたしたちは孤独に憧れもする。孤独の深淵に沈吟するおのれ、誰にも理解されない自分像というのは、青いカタルシスの格好の餌である。結局人間はひとりなんだ、という結論めいたものには多くの人が一度は到達し、通過し、戻ってくる。
矛盾と弱さは人間の愛らしさでもあるが、なぜこうも一貫性がないのか。わたしの仮説では、「友達」という檻にわたしたちを閉じ込めているのは、自分を規定するものの弱さである。
わたしたちはみな、とても普通だ。呆れるくらいに凡庸だ。思いつくことも悩むことも怒ることも、ありふれたものだ。別に悪いことじゃない。バラエティで「キャラがない」と悩むかが屋と今田耕司の会話は的確だった。
社会から逸脱していない限り、われわれはどこまでも凡庸である。「アタシは変わってる」と思う人こそじつにナイーヴな感覚を隠し持っている。と思う。
自分ひとりの凡庸さはしかし、友達の存在がいくらか和らげてくれることがあるのだ。
関わる人の数だけ違う自分があって、関わる人の数だけ違う自分と出会いなおしている。それが止まると、自分の更新もいくらか鈍る。友達を単なる暇つぶしの相手としてではなく、もっと切実に考えるとき、思考はやはりそこに行きつく。でも、「なぜ我々は友達という『鉄の檻』から抜け出せないのか」という問いには十分に答えられていない。今日もその問いに答えを出せないまま、友達とパブに出かける。
インタビューの目的はMがどのように人に快を与え続けているかを探ることだった。それはいくらか果たされたが、新しい深淵なる問いが生じてしまった。だからこの長い長いnoteに、結論を出すことができない。ごめんなさい。
人との会話という、空気のような、いや時には薬であって毒にもなる、透明な湖のような泥沼があるだけです。読んでくださってありがとう。