自分自身は凡人だと確信していて、だから努力をしないわけにいかない。
noteで以外で書くと滑りそうなんだけれど、
タイトルの通り、私は自分自身を凡人だと思っている。
だから無理のない程度に自身を追い込みつつ、努力をしてきた。
それで今の状態に辿り着いているのは誇りに思う。
noteでこういう話を書くと、読者にモヤモヤを与えるんじゃないか、
と思い、最近は胸にしまっておくようにしていたけれど。
noteを始めてから、自分の状態に納得がいくまでは、
自分自身の才能があまりないことを気にせずにはいられなかった。
とは言っても、文章書いたらフォロワー増えることはあり、
YouTubeでショート動画を投稿すると1000回は普通に超えて、
それが叶わない人もいるんだと考えると、
全く才能がないわけじゃないんだろうけれど。
僅かにでも神より才能が与えられているのなら、
それを活かさない手はない。
泥臭くても良い。小狡くても良い。人に迷惑をかけても良い(程度によるが)。
周りを傷つけてもいい(程度によるが)。
シラフで道徳に照らした時、エラーになるような感情と共に、
進んできたのである。
シラフで道徳に照らして、正論に逃げ込むだけじゃ、
面白くない。
許される悪戯、許される意地悪も実際あるのだから、
シラフで道徳に照らした後、それらも認識しないということは、
それに気づかなかった、ということにしているように思う。
許される悪戯、許される意地悪は実際あると私は思うし。
そう認識し、それらを部分的に認めることは、
これまで悪戯や意地悪をしてきた人間を許すことにも繋がる。
真の寛容さは、人類が起こした問題や、抱える問題に
誠実に向きあった上で、表現できるものだと思う。
と言っても、一人間が、一生涯の間に、
全能な知識を身につけることは不可能でもある。
生きている間には、知識を全能と言えるレベルまで昇華できないこと
受け入れ,認めることも悟りだし、
それを受け入れても尚、知識を全能と言えるレベルまで昇華しようとするのも
悟りだ。
この記事を書く前は、自分自身は凡人だと思っていて、
だから努力しない訳にはいかない、というテーマで書き下ろしていた。
しかし書き下ろしていく中で、自分の文章が輝いて見えてきた。
クラスで目立たない陰キャがギター持つと、格好良くなる、
(アジアンカンフージュネレーションの ループ&ループのコメント欄で
そういうコメントを見た記憶がある)
ような現象で、文章書く前は、自己肯定感低い発言するんだけれど、
書いている内に、あ、私、文章に関しては凄いや(笑)ってなってくる。
まあ、能力が低い人ほど
自己肯定感を高く持つというエビデンスもあるようなので、
それを知ったから、忘れるか、もしくはエビデンスを無視しない限りは、
自己肯定感を高く持つのをやめよう、ってなるのが自然だと思う。
だから私は自己肯定感が高い人の気持ちがいい意味で良くわからない。
よっぽど能力がない人間だっていうことなのか、
才能が大きすぎて常識が通じないか、の2通りと考えている。
タイトルに回帰するけれど、
自分は自分を凡人だと思うため、
自分の才能が大き過ぎる、なんて嘘でも思えない。
将来ビッグになる人間はビッグになる前からビッグマウスだと
鴨頭嘉人(かもがしらよしひと)さんは言っている。
それでそういう人たちのことをキ◯ガイだとも言っている。
だから私もビッグになるなら、キ◯ガイにならないといけないんだが(笑)
シラフで道徳に照らした時、周りに迷惑はかけらんないなあ、が勝つ。