「自由な教育」の、方法は?【後編】
北海道長沼町に、新しく「自由な学校」をつくろうとしているNPO法人【まおい学びのさと】です。
代表・細田孝哉が、過去の説明会などで配布してきた資料の一部をご紹介しているシリーズです。
【前編】は、こちら
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今回は、後編として
(1)体験的な学習
(2)話し合い、気づきあい、尊重し合う生活
(3)なぜ、小学校からか?
の3本です!
(んっ?何だかサザエさんみたいになりました)
(1)体験的な学習
本来の教育は、子どもたちの生きるエネルギーを自然に生かし、身体的にも感情的にも解放し、素直な興味・探究心から学習を深める学習活動、学校生活でなくてはいけない。
学習活動においては、できれば直接体験。
できない場合でも疑似体験などを工夫して、子どもたちの興味・共感・身体感覚を刺激し、協働して探究・活動する学習を準備していけば、人が好きになり、達成感と自信がつき、意欲的・自発的な姿勢で理解が深まる。
さらには、身体感覚が磨かれ技術を体得し、表情が豊かになり、自分なりの考えや生き方が生まれてくるようになる。
こうした姿勢は、「学びの共同体」としての学び合う学習の理念や手法、これからの社会を担う若い世代に健全な地球市民としての民主的な資質を育てることをねらった開発教育の理念や体験的な学習の手法などと重なるものである。
だが、それを既存の教科の枠内での実践にとどめることなく、学習全体としての実践にしていくためには、教科教育自体の枠組みをも見直し、体験型・プロジェクト方に組み直していく必要があるだろう。
(2)話し合い、気づき合い、尊重し合う生活
生活においても、自分たちで決まりや問題・課題を話し合うことで、自分の考えを表明し、他者の立場や考えに気付き、多様な考えを摺り合わせて、一致点やより良い選択を探ろうとする姿勢が育つことになる。
自分たちで設定した決まりを守って、互いを尊重し合える生活環境をつくること、自分たちが考えた行事や活動を、自分たちの手でつくりあげていくことは、まさに民主的社会づくりになる。
こうした民主的手続きを身体的に習得して育つのではなく、外在的な事象の知識としてだけ取り込んできた者は、「多数決」という形式が民主主義の手続きだと単純に考え、数の力で物事を決しようとする。
民主主義は本来、少数意見を大事にして、とことんまで合意を探る時間のかかるものであることを理解できていない。
学習活動に限定せず、学校生活そのものを民主的なものとし、学校教育を総合的に、学校そのものを自由で民主的な学びの場にしていかなくてはいけない。
(3)なぜ、小学校からか?
たとえば中学校から始めれば、枠組みとしつけと成績で競争させられて6年間を過ごしてきた児童を受け入れるのと、小さな時から好奇心をそのまま生かして学習を重ねてきた児童を受け入れるのは、大きな違いがあることは考えてみればわかることである。
(ちなみに、代表・細田の教員人生のスタートは公立中学校である。だからこそ、実感をもって言える。)
言葉は少々乱暴になるが、6年間歪められた子どもに、中学校からいくら自由な教育を始めても、場合によっては歪みを直すだけで3年間を費やしてしまうかもしれない。
自由を放任と勘違いしてしまうだろう。
それは、ニイルの「サマーヒル・スクール」でもよく見受けられた事象だ。
6年間の自由な教育を体験することで、自己肯定感が高く、好奇心旺盛で行動力のある伸び伸びとした生徒になっていなければ、中学からの自由な教育は生きないだろう。
知的好奇心をすり減らした指示待ち生徒が、自由の中に放り込まれても、何の行動も起こせないか、反動として放埒な行動になったりするだけだろう。
だから、「きのくに子どもの村学園」でも原則、中学校では他校からの受け入れをしていない。
感性や知的好奇心が伸びやかで瑞々しいうちから
小学校で「自由な教育」をしていくことに意義がある。
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