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ベルリンのカフェの1989年

日本に移住して約四〇年、その間に引っ越しをした回数はあまり多くない。妻もぼくと同じく北京出身で、数年遅れて日本にやってきた。彼女はドイツ留学中にベルリンの壁が崩壊する歴史的な瞬間を目撃した。日本に来る前に、ぼくはベルリンに彼女を訪ね、二人でよく行く小さなカフェがあった。そのカフェのことは今でも忘れられない。

その時は夜だった。カフェにはぼくたち二人のほかに、アジア系の若い男女が一組もいた。ずいぶん若く見えるが、無言で女性はずっと涙を流していた。何があったのかはわからない。ぼくは妻とベルリンに残るか、あるいは彼女が日本に来るかを話し合っていた。ぼくは日本に留学して間もなく退学し、魚屋で働き始め、在留資格も就労ビザに変わった。当時のビザの種類は4-1-6で、中国のパスポートに刻印されていた。それは何年経っても色褪せないままになっていた。この数字がなぜ商業活動を示すのかという理由は、ぼくには謎だった。後に、このビザの種類は「人文知識・国際業務」に変更された。魚屋の日本人店主は、「人文知識と魚を売ることに何の関係があるのかいまひとつよくわからん」と不思議がっていた。

話はベルリンの小さなカフェに戻ろう。閉店時間になっても、その若い男女はまだ同じ状態で、女性は涙を流し続けていた。カフェにはその二人のほかにはぼくたちだけだ。会計を済ませて帰ろうと思ったが、妻はドイツ人の店主の目から何かを感じ取ったようで、もう少し座るように言った。店主はその若い男女の感情を気にしていたようだ。いつものように閉店の準備をしていなかった。コーヒーマシンを片付けることも掃除をすることも、「閉店です」ということもなく、カフェの雰囲気をそのまま保っていた。そこで、妻とぼくはさらに話を続けた。

しばらくしてから気がつくと、その若い男女は手をつなぎ、見つめ合っていた。女性はもう涙を流さず、男性はとても優しい表情をしていた。

そうだ。小さなカフェの心遣いが彼女と彼を助けたのだ。「何事もないように、静かに悟る」というのは、まさにこのような情景を指していたかもしれない。妻はドイツ人の店主と親しく、写真は彼が撮ってくれたものだ。あの時代、ぼくたちは若かった。時々、ぼくは老後、ベルリンのあのカフェのような店を開くのもいいかもしれないと考えている。

1989年ベルリン、妻とぼくはカフェの外で記念写真

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