毛丹青

大学教員

毛丹青

大学教員

最近の記事

ぼくの平成という時代

二〇一九年五月一日、日本は新天皇即位を祝福し、一九八九年から続いた平成の時代が終わった。ちょうど三〇年になるが、八〇年代に日本に留学したぼくたちの世代と時期がぴったり重なった。言い換えれば、ぼくの日本での生活を「平成三〇年」と表現することができるものだ。 「時代と個人」というハイブリッドテーマに最初に気付いたのは、文藝春秋のベテラン編集者からの提案だった。ある日、彼はわざわざ東京から神戸にやってきて、ぼくと会うと単刀直入に、「私の平成時代という自伝を書いてほしいのですが、ど

    • ベルリンのカフェの1989年

      日本に移住して約四〇年、その間に引っ越しをした回数はあまり多くない。妻もぼくと同じく北京出身で、数年遅れて日本にやってきた。彼女はドイツ留学中にベルリンの壁が崩壊する歴史的な瞬間を目撃した。日本に来る前に、ぼくはベルリンに彼女を訪ね、二人でよく行く小さなカフェがあった。そのカフェのことは今でも忘れられない。 その時は夜だった。カフェにはぼくたち二人のほかに、アジア系の若い男女が一組もいた。ずいぶん若く見えるが、無言で女性はずっと涙を流していた。何があったのかはわからない。ぼ

      • この場合に限って、無言こそ最高だ。

        三〇数年前、ぼくは築地で魚を売っていた。愛知県の魚行商に弟子入りし、東銀座に小さなアパートを借りて、毎日深夜三時、魚市場に到着しなければならなかった。鮮魚の仕入れから始まり、魚を種類ごとに分けて白い発泡スチロールの箱に入れ、市場の指定場所に整然と並べ、夜明けのセリを待つというおおまかな流れだった。このような作業はほとんど言葉が必要なく、魚市場は人と車が行き交い、話し声が聞こえないからだ。また、仲買人はセリの時以外は、ほとんど声を出さない。 これまでの長い年月で、この経験から

        • 毛ゼミの出発点は日本文化を知ること

          毎年、新しい学生が毛ゼミに参加する。実際のところ、ゼミと言っても、厳密にはディスカッションベースのクラスだ。一般的な講義とは異なり、教員が話し、学生が聞くという一方通行の授業ではなく、双方向の対話方式で行われる。授業は教室で行うこともあれば、研究室で行うこともあり、学生たちと一緒に旅行に行ったり、いわばフィールドワークを行うようにしたりすることもある。 大学では、ゼミは最も一般的な授業方式だから、標準的なものとも言えよう。とくに新しい方式ではないが、毛ゼミの特徴は日本と海外

        ぼくの平成という時代

          直感に頼って観察するための空間

          日本に来たばかりのぼくは、日本語がまだ不十分だった。ところが、不思議なことに、人の話を聞いてわかったようなわからないような時にこそ、かえって観察眼が冴え、直感による判断が出来たようだ。 今でも鮮明に覚えているのは、三重県菰野町の陶芸村を尋ねた時に出会ったある焼き物の職人のことだ。彼は話をするのにとても細やかな手振りをまじえ、茶碗の表面の話題ひとつをとっても長い時間をかけて話してくれた。色合い、土の質のこと、土のかたまりのこと、風を受ける面、遮る面、背く面などについて、もはや

          直感に頼って観察するための空間

          語り継ぎは、大河の流れだ

          もし妻と一緒に神戸市から西宮市に引っ越していなかったら、北山緑化植物園に小さな蘭亭があることを知らなかったかもしれない。それと同様に、もし中国人ではなかったら、この典故が紹興の蘭亭や王羲之の『蘭亭の序』に由来することも知らなかったかもしれない。小蘭亭は1985年に西宮市と紹興市が友好都市を結んだことを記念し、1987年に建てられたものだ。紹興から招かれた5名の職人が半年かけてその建造物を作り上げた。 千年を超えて、ずっと語り継がれる蘭亭は実に異文化交流の象徴だ。今日になって

          語り継ぎは、大河の流れだ

          その瞬間とその共感

          この夏、北京の好運街での飲み会をきっかけに、長年北京に住んでいる日本の友人たちと会った。その時、日本人女性が経営する居酒屋に集まることになったが、運悪く彼女のフライトが遅れ、北京に戻ることができなかった。どうやら野球好きで、アマチュア野球チームのために無錫に行ったらしい。そのチームには日本人も中国人も所属しているそうだ。 居酒屋に行く前に、妻と一緒に亮馬河の川沿いを散歩した。何年も歩いたことがなく、河水の清らかな流れや両岸の賑わいに驚いた。散歩中はちょうど夕陽が沈む時間帯で

          その瞬間とその共感

          仏像とぼく、そして中国

          どうして仏像はこんなにぼくの気持ちがわかるのだろう。 お寺を参るたびに、仏像を仰ぎ見て、つくづくため息をついた。このようなことを書くと不思議に思われるかもしれない。仏像は人間の顔をしているから、人の気持ちがわかるのはあたりまえ、と考える読者の方も多いはずだ。 ところが、人間というのは自分の気持ちを都合のよいものにすり替えてしまう、奇妙な能力を備えている生き物だ。仏像に向かって拝む時の優しさの底に潜んでいるのがあざとい優越感であったり、軽蔑と称しながら形を変えた劣等感であっ

          仏像とぼく、そして中国

          土に還る

          夏休みを北京で過ごした後、親戚や友人たちと別れの挨拶をして、ぼくは日本に帰る飛行機に乗り込んだ。離陸してまもなく隣りの席に日本人らしいお爺さんが座っているのに気がついた。恍惚とした表情で、寂しそうに真っ黒い喪服を着ていた。膝の上に白い布に包まれた小さな箱を置いていた。その形からみて、それはおそらく骨箱だろうと思いあたったが、ぼくはそれ以上に見ようとしなかった。 機内は会話もあまりなく、エンジンの騒音ばかりが耳に飛びこんでくる。しばらくすると機内放送で客室乗務員の柔らかい声が

          はじめての北京40日間滞在

          正直にいうと、もしパンデミックがなければ、以前のスケジュールはいつも通りで、毎年の冬休みと夏休みには一時帰国し、平均で十日間ほど滞在していた。時には仕事のために慌ただしく、日中間の往復が最長でも三日間、時にはそれ以下になることもあった。日本文化専門誌を創刊したときに、なんと日帰りで往復していた。大阪から上海へ飛び、昼に編集部員と会い、夕方には大阪に戻ってきた。帰り道に屋台ラーメンを一杯食べた。屋台は移動式で、空港リムジンバス停の近くに停まっていた。車輪は金属製の車止めで固定さ

          はじめての北京40日間滞在

          本日、中国では教師の日だ

          昨晩、学生たちと食事をしていると、思いがけない祝福を受けた。今日が教師の日であることを知った。日本には教師の日がないから、祝福はすべて中国人留学生からのものだった。時々、共属意識を感じたこともある。北京で小学校に通っていた時、美術科の先生がとても親切にしてくれた。 彼女は学校に住んでいて、大きなアドリエを持っていた。そこには彼女の油絵やデッサンがたくさん展示されていた。授業が終わると、彼女はぼくをそのアドリエに招き、石膏像を描かせてくれた。それ以外には何も言わなかった。時々

          本日、中国では教師の日だ

          北京で翻訳が完成したこと

          三年前、中国の大手新聞「北京晩報」に寄稿したことがある。そのタイトルは「文学の翻訳における言語の現場変換が必要」というものだった。ネット上で簡単に検索することができる。その中でぼくが述べた問題点は、翻訳プロセスに関する内容で、ほかとは関係がない。このプロセスを強調する理由は、やっぱり日中文学の翻訳経験に基づいているからだ。小説や戯曲だけでなく個人伝記や仏教経典も含まれていて、範囲は比較的に広い。最近、人民文学出版社から発行された拙訳『劇場』は、芥川賞作家・又吉直樹氏の小説だ。

          北京で翻訳が完成したこと

          北京における越境する記憶

          北京に戻るたびに、なぜかいつも異なる感慨を抱くようになる。これは間違いなく、年齢を重ねるにつれて形成されたものだ。永代供養の家族墓を建てたから、どんなに忙しくても、彼岸の親に挨拶をするようになった。もちろん、われわれの間の絆は、深い思念であり、複製することはできない。 ぼくは長年間、日本に住んでいる。ずっと前から仏教に興味を持っているから、此岸と彼岸の諸項目について理解することができるし、関連する論文や訳文なども書いたことがある。ただ、詳しく学識と比べると、やっぱり一般的に

          北京における越境する記憶

          なんとなく、宗教的な体験

          もしぼくには、宗教的な体験があるとすれば、それは仏像との出会いということだ。神の姿をみることもなく、神の声を聞くということは一度もなかった。 仏像とは、それはただ会うということではない。大学時代に敦煌という素晴らしいところを旅行したが、一度にあんなにたくさんの仏像をみたのは初めてだったのに、ひとつひとつ顔が違っていた。それらはすべてぼくの中で鮮明に今も覚えている。 特に莫高窟45窟の仏像の顔、驚くほど表情豊かなことに気がつき、みんなそれぞれのモテルになった聖人が実在して

          なんとなく、宗教的な体験

          それを、絵本で呼ぶならば

          絵本との出会いは、ヨシタケシンスケ氏の傑作から始まった。最初に翻訳したのは、氏の代表作「リンゴかもしれない」だった。版元の手配で二〇一九年の春、横浜市内で氏と会った。背がとても高く、使っているノートはとても小さい。タバコの箱ぐらいの大きさだったから驚いた。 実は同じ年に上海の文化専門誌「在日本」と協力し、「ほぼ日手帳」を初めて中国語に訳した。その間、手帳に描き込むような習慣が身につき、子供の頃からの絵描きを再び磨きはじめた。結果として、手帳に描くことが止められなくなり、もう

          それを、絵本で呼ぶならば

          中国を知ることの真剣勝負

          中国を理解することは間違いなく大きな課題だ。これは中国にとってだけでなく、世界にとっても同様。内外を比較してみても、世界への中国の影響力はますます注目されている。 昨晩、ノンフィクション作家と会食し、中国について話し合った。今の中国に関する本を書きたいというが、ぼくの経験から言えば、中国を話題にする日本の方は、中国問題の専門家か、また、何らかの個人的な理由で中国と縁がある人が多い。それ以外には、中国について話す日本人は、ほとんどいない。 近所には、男性高齢者がいる。普段は

          中国を知ることの真剣勝負