見出し画像

「歎異抄」とぼくの話

今になって言えるが、翻訳の世界に足を踏み入れたのは、まったくの偶然だった。一九八〇年代中頃、中国社会科学院哲学研究所に勤務していた際、三聯書店「新知文庫」編集委員会から依頼を受け、柳田聖山教授の学術書「中国禅の成立史」の翻訳に取りかかるようにした。中国語版では「禅与中国」というタイトルで出版された。

当時、ぼくは哲学研究所に入ったばかりで、日本的な思考に興味を抱いていたから、なるべく原著を読み込み、それに基づいたメモも取っていた。李沢厚先生が翻訳を勧めてくださり、次のように言われたのをよく覚えている。「柳田教授の本は素晴らしい。とても実直な内容だ。鈴木大拙の本よりもいい。鈴木の本には虚が多すぎる。」

「禅与中国」が出版された頃、ぼくはすでに日本に渡り、三重大学で留学に必要な手続きを済ませていた。そして、京都を訪れ、柳田聖山教授にお会いした。教授はとても静かな料亭でぼくをもてなし、中国禅宗研究に関する数々の見解を語ってくださり、深い印象を受けた。翻訳者が著者とは、やっぱり直接顔を合わせるということは非常に重要だと常々感じている。

その後、生活のために商業への道に進むことを決断した。そして学術の世界とは完全に距離を置くようにした。最終的には遠洋漁業のお仕事に就き、多くの国々を訪れた。しかし、この時期にも、心の奥底で文系への憧れは消えることが一度もなかった。

ついにある日、妻が飛行機でひとりの日本人僧侶に出会い、その僧侶からお寺に訪れるよう招待された。一九九二年の元旦のことだ。

新年の鐘の音が響く中、それがぼくの文系への渇望に再び火を灯した。僧侶の勧めで、ぼくは「歎異抄」の中国語訳に挑戦した。昼間は商業で書類を受け取り、大量の漁船を手配して出航させ、夜は帰宅後に原著を解読するという生活を送り、約二年以上かけて完成させた。

その期間中、ぼくは禁煙禁酒をし、余計な誘惑をすべて断ち切り、まるで苦行僧のような心構えでひたすら翻訳に打ち込んでいた。

「歎異抄」は中国名門の文津出版社から出版され、中国仏教協会会長の趙朴初氏が拙訳に題字を寄せてくださったときには、思わず胸が熱くなった。

その後、一九九五年の阪神・淡路大震災を経験した。紆余曲折を経て、一九九八年に会社を辞職し、日本各地を巡る旅に出かけた。そして日本語で本を書くようになり、初めての日本語著書「にっぽん虫の眼紀行」(法藏館/文春文庫)を発表した。これを機に再び文系の道に戻った。

大学の教職につくようになってから、時間ができるたびに自分の好きな本を翻訳している。ぼくにとって、長い年月を経て翻訳に戻るということは、まさに「歎異抄」とのつながりを感じるものだった。それも一つのきっかけで日本文壇に対する関心を深めたと同時に中国の出版業界とも親交を持つようになった。

「出家とその弟子」も中国語訳で出版された

いいなと思ったら応援しよう!