表現主義の担い手
1900年ごろドイツに出現した表現主義。絵画、文学から始まり、その後ヴァイマル共和政下で表現主義の映画や演劇が発展する。「近代の終焉」との遭遇でうまれた「病める」芸術であった表現主義の文化・芸術は、どのような人たちによってつくられたのであろうか。
「表現主義は人生と芸術に対する本質的態度である」──ヘルヴァルト・ヴァルデン(Herwarth Walden)
表現主義は、「表現主義運動」や「表現主義の時代」と称するほど歴史的に主流なものではなかった。ドイツで起こった文化運動のひとつ、または大衆運動と分類するよりも、当時の限られた時代と地域で起こったサブカルチャーと称するほうが相応しい。ごく一部の集団・サークルで起こった閉鎖的な文学的・思想的潮流であり文化的現象だった。
表現主義はカフェやクラブ、キャヴァレーでうまれた小グループ内で発展した。芸術家や詩人たちはカフェやクラブやキャヴァレーに集まり、開いた交流や市場の経済的な強制を嫌った。これらの閉塞的な交流の場で執筆をしたり批評や議論を交わした。また、表現主義は、《シュトゥルム》誌や《アクティオン》誌などの身内の雑誌を中心に起こった「文化的方向性」でもある。
表現主義は若者たちの運動だった。パウル・ラーベ(Paul Raabe)の調査によると、表現主義の活動をした者およそ350人のうち、1885年から1896年生まれは3分の2を占める。表現主義の全盛期は1905年から1925年である。つまり当時の表現主義者たちは少なくとも40歳以下であった。そして教育を受けている者がほとんどである。また80パーセント以上が学者であった。25パーセントが博士号を取得していた。表現主義者たちは若い知識人であった。そしてその多くがユダヤ人であった。
思想としては、表現主義者たちの多くは革命左翼的であるが、クルト・ヘルツニッケ(Kurt Heznicke)、ハンス・ヨースト(Hans Johst)、ゴットフリート・ベン(Gottfried Benn)のように ナチズムに傾倒した者もいた。 ゲオルク・ルーカス(Georg Lukacs)は「表現主義は小市民的であり、ボヘミアンであり、プロレタリア革命ではない。ファシズム文学とも関係がある。」と批判している。表現主義者のなかにはペシミストもいればアクティヴィストもいた。表現主義者たちは政治的な意見を多く表明したため、そのことが原因のひとつとなり、表現主義の現象は長くつづかなかった。表現主義者たちは不安定な社会の中で、人々がより良い生活を作れると願っていた。そんな若者たちの活動であった。
表現主義の研究者フリッツ・マルティーニ(Fritz Martini)は、「表現主義の影響はまだ今日では歴史的だと言えない」と評しているが、表現主義の残した影響はもちろん存在する。表現主義者たちは、歪曲、抽象、異常な構造、超凝縮された言語、不調和なメタファーを使ってかれらの世界をつくりあげた。そして潜在意識や責任感、楽観、渇望など、かれらのこれら社会へのみかたは文学において強いレトリックとしてあらわれ、以後の文学の世界に貢献を果たした。
出典
Anz, Thomas. Literatur des Expressionismus. J.B. Metzler. 2002. p24-44.
Paulsen, Wolfgang. Deutsche Literatur des Expressionismus. Weidler Buchverlag Berlin. 1998. P11-33