これは僕の中の主体性の話。

最近少数派の意見というものが評価されるようになった。
対抗意識としてメインの意見というものがあるが、これは麻雀を労働とみなす人に言う言葉。ではまお@さんはどう考えるかをぽつぽつと書いてみた。


1.僕の麻雀は麻雀ではない。
2.うまたんという友達
3.うまたんと賭博としての麻雀

4.黒沢さんと来賀先生と
5.伝統と人の心と歴史
6.昔の人と昔の麻雀


1.僕の麻雀は麻雀ではない。


僕の麻雀は麻雀ではない。

これは麻雀とは賭博であり、発祥の国では昔は100を超える賭博があった。しかし札などに残ったものもあるが最終的に残ったのは、牌という石を百数十と集めた麻雀だけになったらしい。詳しくは梶本プロが麻雀博物館という施設にいるので聞いてみるとよい。

ではなぜ僕の麻雀は麻雀ではないのかというと、僕の麻雀はコピーの麻雀であり、模擬品である。そのため、模擬品とはそのものを研究し似せて作ったものである。模擬品の目的は似せた作品と同じ能力をしていること、つまり模擬品には心はない。
似ようと作ったものには、本物の、本物のなりたいという欲という心がないのである。
そのため、僕の麻雀は模擬品であり、残念ながら賭博をできるというメンタル面での強さ、心はないのである。

2.うまたんという友達


ぼくには京都に、うまたんという友達がいる。

彼は天鳳九段という成績がある。だが掛けマージャンはしない。
ニコニコ生放送にて、「中卒はげデブ外事ニート」などと呼ばれ、一回の放送で千コメント以上稼ぐ人気者である。

だが彼は腐っても天鳳九段である。これを問うてみようと思う。

3.うまたんと賭博としての麻雀


うまたんは麻雀で賭けをしない。これは健全でよいことであるが、彼はパチンコでハイエナという行為をして生活しているらしい。

ハイエナという生活はわからないが結構つらい生活をしているらしい。
彼の家庭環境は父母の働きと病気になりかけている兄の四人家族だった。

賭けの世界に入っても目はないのは明らかだし、なによりも「麻雀配信中に家族の話をしだすあたりにレートの世界はあっていないのはわかる。

だが僕はそれよりもうまたん打ち方を見る。

これはわたしがメモとしたものである。

うまたんは麻雀を機械的に打つ。多くのネット強者がやってきた手口であるため良い。

しかしネット麻雀はネットである。牌を実際に並べる理牌やリアル特有のいかさま、不正行為の手口に対して理解がないといけない。

うまたんはそれらができないのである。

そしてなによりもオヤジ待ちと名付ける、特有の麻雀では低打点になる代わりの手順もある。

昔、押川雲太朗先生の麻雀漫画を見たことがある。
その中にレートで勝ち残っている強者がデジタル世代の若者と打った一場面

デジタルの若者三人がカンチャン即リーであがりにあがる。
だが主人公の強者はただ淡々と自分の麻雀を打つ。

するととあるときにデジタル三人組の一人が、主人公のリーチに対して押し行為をして放銃。待ちは愚形。しかし打点は高い。

ある一人もそれにかかる。主人公のリーチに対して押し行為をして放銃。待ちは愚形。しかし打点は高い。

するとその二人はいつもと違う手組をする。主人公のリーチに対してはべたおり。主人公のペース。そうしていると間が変化し、三人目も振り込み。

デジタル三人は、主人公のリーチは高いと判断して、リーチにベタオナリ。
だが勝ち組の主人公は、手順はツモしてのリーチだから、あがる。

それを何半荘も続けているとデジタルの若者は負けたのである。

というのが筋。

そのためうまたんも麻雀の打ち筋として素直すぎるため。負けるとなるのである。

4.黒沢さんと来賀先生と


これに対して来賀先生という方がいた。

Twitterで何度か連絡していて、毎年誕生日に黒沢杯という感謝祭を開いてらした。
そのなかで、一緒に打ちたい、待てないか?と内容忘れたが返信してくれた。
先生は「待てない」という返事で、それから半年でお隠れになった。

僕はその数週間前に天牌外伝という作品を中古ながら全巻揃えていた。
その中で主人公黒沢さんが言った言葉で覚えているのが「麻雀とは自分を来るゲーム」という言葉がたしかあった。

これは「麻雀は負けるから面白い」「自己満足と反省の日々」など名言があるが、主人公黒沢さんの強さを表す言葉だった。

そのためか、僕も麻雀の評価がそれとなっている。
僕も麻雀をたしなむものは自虐と反省という基礎かなってないと、麻雀打ちとして評価できないとなってしまった。

だからからか、うまたんは自分のことを鍛えようとせずだらだらと過ごしていて、少し気が引けるが、麻雀には向かないという評価になった。

5.伝統と人の心と歴史


別の見方をしよう。
伝統とは人の心であり、人の心とは歴史であるという言葉が僕の胸に刺さった。これは武術家の先生がテレビをつけたときにおっしゃっていて思わず納得してしまった。
いや納得させざるを得ないというか、道という日本独特の習得体系をおっしゃったことがあった。そのため、その独特を書こうにもその独特まで言わざるを得なく、納得したの一言になる。

僕は麻雀を大切に扱ってきたか?という自問の心がある。
これは自分が大切と考えることが評価されるのか良いとしたい思いもある。

SDGSといえワードもある。

僕の中で、麻雀とは各々の価値観の麻雀があり、うまい下手で麻雀をやっているのではないという考えがある。自分の中で没頭できるから麻雀があり、それが偶然にその競技であるだけなのである。

だから、卑怯や効率が悪いとされる僕の叔父が見せてくれたオヤジ待ちも、市のサークルでおじいちゃんおばあちゃんたちが見せいてくれた独特の牌の持ち方の瞬間⑧ブロック打法もネマタさんの現代麻雀技術論も評価したいという。
少数派の意見も一人として尊重したいという心がある。

うまたんにはわからないと思うが、
少数派の意見も取り入れない者は、少数派の自分の意見も言えないということもある。

6.昔の人と昔の麻雀

昔の麻雀打ちは、自分が記録に残ると思いもしない人が大多数だった。
東風荘、とつげき東北先生の最強講座から始まり、天鳳。それらのプロの解説本。500円ワンコイン戦術本になった。

それが2018年ごろからの雀魂-じゃんたま=というアプリで、若者の動画配信でブームになってしまった。
すると自然に今の10代の若者は、勝つための手段を取り入れるために配信に来てくれた人に教えを願ったらしい。youtubeの解説も具体的を踏み向き、書店の昔の麻雀戦術本をそのまま法外引用した失礼な動画もある。確実な戦法としての何切るがブラッシュアップされた。

そうしているうちに麻雀は爆打から始まり、マイクロソフト制のナーガがあらわれた。
マイクロソフトの開発者も仕組みはわからないそのナーガだが、AIの先端としている。

昔の人といえば私には家族がいる。
祖父母である。

祖父母は商店を出していて、特に祖母は厳しい人だった。

いつも家にいて、僕ら兄弟を世話しながら暇さえあれば習字や店の白色申告や店の会計をしていた。

僕の仲間のおじいちゃんおばあちゃんもこのようなまじめな人が多い。
昔は働きバチといわれる働き方をしてやっと自由になった人が麻雀をしている。

7.昔の僕は満足しているのだろうか?


そもそも僕は欲というものがあったのであろうか?
麻雀はわからないものとして取り扱って居続けてほしかったのだろうか?

2014年の僕は、ただ勝つための現代麻雀技術論を読みふけって、2011年に書いたデータも忘れていた。
今までそのデータは眠らせていたし、そのデータを取り出して何を言おうとしているのだろうか?
僕もわからない。

だけど登米の麻雀打ちのおじいちゃんおばあちゃん達はやさしかった。たがから僕はしあわせだった。

だが、昔の僕は満足しているのだろうか?は。今の自分は満足し続けているのだろうか?と、という問いになる。

僕の今は、大学にもどりたいということ以外は満足している。
たが、今大学に戻っても、勉強はできないと思う。僕は年だ。勉強はできない。だからからか、麻雀の戦術を、自分の麻雀を書きたがっているのだと思う。

2017年、僕は石巻の精神病院で、僕のパソコンら不正にデータを引き剝いた人に会った。麻雀を教えてほしいと頼まれた。僕は当時も今も麻雀がわからないので、自賠を切っていって真ん中に寄せればいいと思いますよと、荒正義さんと同じことを言うと思う。

だが、賭けという違法の世界の人のおじいちゃんと、盗聴器を体内に埋め込まれた履歴もある、僕は少なくても僕の麻雀をまとめる必要が出た。

そのため2017年から戦術というか調査物をネットにアップした。

ほんとなら多くの昭和の雀士と同じく消えることができたのにそれがその麻雀を教えてほしいという誰かの願いにより。僕は何がしたかったのだろうか?

だが、自分の願いをかなえられるのに、退任の願いをかなえられるように努力できないと、それは自分の願いがかなえられないと思う。

だからアウトプットしているのだろうか?
人らしい人になるため、人らしい人に会いたいと思う。

2022年10月5日
登米市 千葉