ビジュアルシンカー麻王
▪️ビジュアルシンキングについて
世の中では、ビジュアルシンキング(視覚思考)という言葉が存在し、そういう類の本が存在するらしい。私はそういった本を読んだことがなく、世間で言われているものと一緒かどうかはわからないのだが、私なりに行なっている視覚思考について、そして対になるであろう言語思考について書いておこうと思う。
私が仮定するビジュアルシンキング(視覚思考)とは、一言で言えば、「左脳に囚われすぎず、右脳優位に認知をする」ということだ。
![](https://assets.st-note.com/img/1714596388236-VZhSXsF6cd.jpg?width=1200)
ここに一枚の写真がある。普段使っている自分の仕事机。
私が普段目にしている光景だ。
この汚いデスクだが、この情景を他者に説明するとき、「視覚処理」と「言語処理」のどちらが素早く、多くの情報を送付することができるだろうか?
また、情報の受け手としては、「視覚処理」と「言語処理」のどちらが素早く、多くの情報を得ることができるだろうか?
▪️言語による情報の記述
この状況を、言語で説明してみよう。
「ガチャガチャとした汚いデスクだ。」
「このデスクの上にはさまざまな物が載っている。」
「キーボード、iMacとモニター、多数のHDDやSSD、猿田彦コーヒーのカフェラテ(パック)、マグカップに入った文房具、除菌のアルコールティッシュ、ネピアのティッシュ、クロレッツ、スキャナー、空のCDケース、レシートや書類がある」
「壁には絵が飾ってある。」
「なんか赤い紐みたいなのが垂れ下がっている」
・・・
少し書いただけだが、もう飽きてきた。
全ての情報を文字で伝えようとするには限界がある。
「百聞は一見にしかず」
「目は口ほどに物を言う」
視覚から得られる情報量と言語から得られる情報量には、とてつもない差がある。
言語はデータとして非常に軽い媒体で、抽象化することで圧縮して操行できる利点がある。反面、言語から受信できる情報量はそう多くない。多い情報量を送付しようとすると、膨大なテキストが必要になり、それを読み取るのにもまた膨大な時間を必要とする。
━例えば、「壁には絵が飾ってある。」と書いたが、それはどんな額に入っているか?その額の比率はどんなもので、どんな質で、どんな色で、どんな絵が描かれているか?その具体的なトーンやタッチを、言葉で説明できるか?これらが置かれている場所の具体的なライティングや、モノたちのシワの数まで数えるほどの細かなディテール、造形、色味、質、場所、大きさの比率、空間感、湿度感、その情景が物語るバックストーリー、それらを総合した、「空気感」と呼ばれるような類の、”えも言われぬ雰囲気”というものを、言語で情報説明できるか?━
さらに言語はその機能上、意味を区切ってしまうため、その実際の情報が纏っているグラデーション、”言語化されない部分”、”言語化するほどでもない部分”、”普段のコミュニケーションの中では言語化しなくてもいい部分”までは伝えることができない。
━例えば、「富士山」という言葉はあるが、裾野のどこからどこまでが富士山であるかは、断定することができない。今自分のいる場所さえ、富士山の裾野の延長上である、とも言える。何の要素が「富士山」という概念を構成するかは決定的な要素などない。この情報のグラデーション量を表すには、言葉では足りない。━
言葉は、”便宜上”、”大胆に”、”なんとなく”、"あいまいに"、”仮の区分として”、機能しうるものである。
言葉による抽象化、意味付けというのは、人間の認知機能を育てるのに大いに役立つ。しかし、それは曖昧な情報であり、限定的な情報にしかならない。
そしてどこまで詳細に言葉を費やしたとしても、やはり言葉は「その状況が持つ情報を、そっくりそのままニュアンスを保った完璧な情報体」にはならない。むしろ言葉を詳細に使えば使うほど、その区切りが他のニュアンスを削いでしまう。そのニュアンスを補完するにはまた詳細な言葉が必要だが、それもまた区切りが出来てしまい・・それは、アキレスと亀のような関係だ。
我々がこの画像から示される状況におけるミクロのニュアンスを詳細に言語処理で記述しようとすると、一体どれだけの天文学的文字数になるのだろうか。
果ては量子のふるまいまで、もっと織り込まれ隠された次元の情報を言語処理で記述しようとすると、一体どれだけの記述が必要になるだろうか。
人間個人の言語による情報の記述の運用には、限界がある。
上の画像の説明のためだけに書かれた文章が
100万ページ分ある本を誰も読もうとはしない。
無論、視覚情報ならば完璧に記述できる、ということでもない。視覚もまた可視光領域の情報しか取得することができず、限定的である。また視覚自体が脳のフィルターを通した解釈表現であるため、完全に信じられる情報というわけでもない。
とは言え、可視光領域の情報といえども、全ての情報を言い表すには「とてもじゃないが言い表したくなくなる」ほどの圧倒的情報量が、目の前にはある。情報は、細やかになればなるほど、マクロ的試算からミクロ的試算になればなるほど、抽象から具体になっていくほど、データ量が指数関数的に大きくなっていく。
人間個人の情報処理能力としては、言語処理ではなく視覚処理の方が膨大な情報量を入出力できるということだ。
▪️視覚思考 / 視覚感受
視覚は、こういった膨大な情報を、文字通り「一目で」視認処理させる。例えば写真が1枚あれば、大枠のパッと見で大体の情報のニュアンスを瞬時に認識することができる。言語野を介さずとも、"大体"わかるのだ。
"視覚思考"というと「どうやって考えているんだ?」と、
なんだか分かりづらいだろうが、
その実、"思考をしているわけではない"。
ただ、見た時の感じをそのまま味わっているのだ。
"視覚感受"と言った方がいいのかもしれない。
そしてそれは、「右脳優位で物事を認知する感覚」だ。
さらにそれは視覚思考という言葉よりも、「直観」である。
これは私の体感になるが、直観とは、「閃き」だ。
私の体感的には、「閃き」は、外部刺激に対して意識的な思考を介さずに、無意識というのか、量子脳による外部刺激に対する量子的繋がりというのか、そういったようなものが右脳を通して瞬時に反応して瞬間演算する処理である。
まずは何事にも直観の演算処理があり、その後、右脳の視覚思考が続けてじっくりと感覚で味わい続け、さらに左脳の言語思考が論理的に事後演算処理していく。いや、左脳が後でそれを論理的に組み立てていくというよりか、無理やり後で意味づけをして解釈しているといった感じだ。
▪️右脳優位の思考の流れ
もう少し具体的に流れを説明すると、
最初に外部刺激がある。
今回の場合は「汚いデスクを見る」という刺激だ。
まずはその「パッと見」の情報を大事にする。視覚を通して右脳が何を瞬時に感じるか、その脳が感じた「雰囲気の優先度の序列」と「その瞬時の閃きの味わい」を大事にする。ファーストインプレッション。ファーストバイト。パッと見で何が入ってくるか。どう感じるか。そういったものを大事にする。
直観処理の後、視覚思考によって、さらに深く情報を取っていくために観察をする。観察によって味わい、比較分析をして、今見えている事象の差異を感じ取る。そこには言語としての意味合いはなく、ただ自分が受け取っている光の電磁波の差分を比較するだけだ。
視覚情報というのは、脳が可視光線による膨大な電波を受け取って瞬時に解釈している演算結果なのだから、それそのものでとてつもない量の情報量が受け取られているのだ。
人間には、これらの膨大な情報量を、常日頃から視覚野で取得処理する機能が備わっている。(データが重すぎるので、意識していないと蓄積せずに勝手に排除されていくストリーミング受信のようなものだが。)
そして観察によって反芻すればするほど、受け取れる情報量はさらにとてつもなく増えていき、今見ている情報が、より鮮明な解像度となっていく。見えている情報自体は変わらないのだが、同じものを見ていたとしても、受け取り手の視覚情報処理の仕方によって、得られる情報は格段に変わっていく。
ゲームで物資を収集する際に、鉱石をひたすらじっくり時間をかけてマインする感覚と似ているかもしれない。あの手この手で観察の仕方を変え、対象から情報を掘削し、ダウンロードする。
ここら辺でやっと、言語思考が出てくる。観察対象を、意味合いによって、より情報の深度を増していく。しかし、言語の情報処理は先にも述べたようにとても少ない情報しか処理できないので、非効率だ。拘ってはいけない。言語思考はあくまで視覚思考の補助でしかないのだ。
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「これらが置かれている場所の具体的なライティングや、モノたちのシワの数まで数えるほどの細かなディテール、造形、色味、質、場所、大きさの比率、空間感、湿度感、その情景が物語るバックストーリーはどうなっているのだろうか??
それらを総合した、「空気感」と呼ばれるような類の、”えも言われぬ雰囲気”というものは、どうなっているのだろうか??」
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↑上記で言っていたような事柄を、言語的に意識させることに言語野のリソースを集中させる。そして結局のところは、"えも言われぬ雰囲気"を得るために、視覚思考でひたすらマインし、迫っていく。
五感で感じる要素も視覚情報に結びついていく。湿度、触覚、匂い、音。
言葉は時間軸を伴って3次元的な一方通行でしか情報を得ることができないが、視覚は全ての情報を同時存在として得ることができる。これは時間の矢、エントロピーを無視した4次元的な捉え方であるとも言える。目に入ってくる電磁波の種類を一瞬で変換して描写をしているこの視覚野は、━いろんなエラーも起こすし受容体である錐体細胞も3種類しかないので見られない電磁波も多すぎるし、かなり脳の方で雑に無理くり便宜上の出力してたりするしで、超最強の処理機能というわけでもないが━それにしてもまあかなり優れた情報処理機能だろう。
こうやって視覚思考によって得た情報は、意味として覚えているのではなく、「あの感じ」「あの味わい」「あの雰囲気」として脳のメモリーに残留する。
意味合いで覚えている情報量よりもより大容量の「雰囲気フォトグラメトリーストック」が蓄積していく。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/139220664/picture_pc_185315ee49202b7f298d71980c5fab6e.jpg?width=1200)
これを、言語処理で説明できるだろうか?
▪️視覚は無弁で多弁
実際、「絵描く」という行為が現代になっても尚なぜ無くならないのかといえば、視覚によって、それだけ情報量の多いやり取りをすることができるからだ。視覚表現者は描くことによって、言語化できないような情報量までを入れ込むことができるのである。視覚表現者は、その表現を作るのに大抵時間コストをかける必要があるが、一度出来上がってしまえば後はずっと語ってくれる代弁者をコストをかけずに永続表示させることができる。
絵は無弁で多弁である。
写真は無弁で多弁である。
映像は無弁で多弁である。
無論、その多弁さは、受け手に依るが。
▪️情報が少ないからこそ、言語は自由だ
小説などでは、ある情景そのものを描写するには、ある程度細かい情報の提示をする場合はあるだろうが、全てを描写するわけではないだろう。”いい感じ”の情報をピックアップして言語描写することで、その最終的なディテール情報、それらはすべて読者に委ねられ、情報の受け手自身が補完して成り立っている。そしてそれらは結局のところ、受け手の視覚思考的なプロセスを経て、視覚イメージとして補完されていく。言語も左脳的言語思考だけで成り立っているわけではない。言語野優勢でものを考える人もまた、頭の中に湧くイメージと共に言葉を操っている。
言葉の方が、情報量が少ないため、曖昧で、余白があり、自由なのだ。
特にこれは日本語において顕著である。日本語は、それ自体が曖昧さを保っており、感覚的に自由なアトモスフィアを纏っている。英語ではそこまではいかない。全て細かく説明しないとそのイメージは見えてこない。
また、漢字の成り立ちは象形文字、表意文字である。グラフィックが指し示す印象には指向性はあれど多義的で解釈の幅があり、意味が一つに絞られ固定化されているわけではない。元を辿れば漢字も視覚表現である。
現代使用されている文字からその情報がなくなっているわけではない。
表意であり表音でもあるので、
元を辿れば音感表現であり、これもまた右脳的処理の分野でもある。
故に、言語ですら、視覚表現と音感表現であるのだから、多分に右脳処理の分野でもあるのだ。
無論、その自由さは、受け手に依るが。
▪️言語思考と視覚思考、または左脳的処理と右脳的処理の序列イメージ
私は美大出身で、視覚思考強めの期間がかなり長かったのでやはり言語化能力に長らく苦手意識と不安があった。そのまま視覚思考のみに頼って生きていきたいという思いもあったが、言語化能力がないと言語野優勢で思考する人々とコミュニケーションをとることが難しいため、実社会生活における言語化能力の必要性を思い知った。
CMディレクターとしてスタッフやクライアントを説得するための論理武装の必要性、ましてや演劇・映画などはセリフなどによって言語展開もしていくのが常なのだから、そういったものを作っていく中で自然と言語思考・視覚思考の両方が培われていった。
ただ未だにどちらかといえば視覚思考優先・視覚思考ベースである。
言語思考と視覚思考というものが、左脳的処理と右脳的処理に完全に分かれているものなのかどうかはわからないが、便宜上、体感的には右脳的処理(視覚思考)がベースにあって、それを左脳的処理(言語思考)が補っている体感がある。
脳は右脳がボスで、左脳はその部下である。まず右脳によって区切りのない膨大な情報のグラデーションの海がそのまま入ってくる。左脳でその膨大な情報を整理するために言葉の意味合いのパーテーションによって区切り、圧縮していく。しかしあくまで右脳の情報量が前提にあり、左脳から情報処理をスタートしてしまうと、とても小さな情報量しか得ることができない。
もっと手前から述べれば、やはり左脳的処理と右脳的処理を統合した「直観」の処理がまず先にあり、大枠のイメージがその直観の時点で生まれて、その後「右脳的処理(視覚思考)」でそのイメージがある程度鮮明になっていき、その後「左脳的処理(言語思考)」が論理的に道筋を補完する、というイメージだ。
論理の積み上げでゴールが見えるのではなく、ゴールが先にある感じのイメージなのだ。
イメージイメージ。
これらが合わさり、連動して、統合した情報処理をしていくのだから、言語思考と視覚思考は、どちらかだけの運用では片手落ちで、情報処理の運用としては弱い。両方の処理能力は行き来し、補完し合うことで、結果、伝わる情報が深まっていく。それらを体感している。
▪️言語思考が下手な人も、上手な人も
言語化が難しい人は、頭が悪いのではない。むしろ言語を介さずに視覚によって膨大な情報処理ができるので、言語化という細かい演算が必要がないだけである。それらを他人に伝えるときに、小さな情報量として圧縮整理できないだけである。人に伝えなくとも、膨大な情報が受け取れている。その情報量が膨大すぎるので、言語による圧縮ファイルが作りづらいのだ。
逆に、常日頃、言語優勢で情報処理をしている人間は、右脳を使うことを拒否し、右脳の運用をシャットダウンする人が多い。膨大な情報のグラデーションの海に飛び込んで、脳がクラッシュすることを恐れていたりする。思ったほどに脳みそはクラッシュしない。残念だがそこまでクラッシュできない。
簡単な圧縮ファイルでのみデータ通信をするのではなく、意識的に膨大な情報のグラデーションの海に飛び込んで、情報を脳に浴びせかけた上で、言語圧縮ファイルの制作にかかった方がいいだろう。
”えも言われぬような情報”を、なんとか言語で掴み取るためにも。
▪️視覚イメージの共有の塩梅、難しさ、醍醐味
余談だが、監督として、”スタッフやクライアントへ具体的な発注の際に説明するとき”。これが一番大変で非常に面倒な煩わしい作業である。
まずこちらが伝えたい内容は、最初に直観によって頭の中に視覚イメージが生まれるのだが、
例えば同じような視覚思考優勢の人間同士のやり取りにおいては、「少しの言語を介するだけ」でもなんとなくこの視覚イメージが共有しあえたりするのだ。完璧に合わさっているかまでは確認できないが、少なくともこの時点では”酷い乱視”くらいの図像の合わさり方をする。少ない情報のやり取りで。
しかし、言語優勢の人に伝えるには、この頭の中の視覚イメージを、いちいち言語化しないといけない。
この時にやりとりする言語自体が精緻化されていないと、頭の中のイメージには近づけられない。よって、イメージを言葉で精緻化して伝えたいときは、いろんな角度から、あの手この手の、とてつもない膨大な量の会話が必要になる。このやりとりを、全スタッフと共有して、全て説明するのである。
また、クライアントによっては、直接絵を描いて見せたり、世の中にある既存のリファレンスを見せないと納得してもらえないことも多い。感じるのは、視覚思考ができない人が多いということではなく、逆に「言葉から視覚思考に繋げられない」人が多いように思う。小説の言葉から、映像イメージを呼び起こせられない、というような人が多いように思う。また、クライアント内でも伝言ゲームで上申していく際に、言葉の伝言ゲームではイメージの共有が難しいのだろう。言葉から生まれる脳内イメージは人それぞれになってしまうわけだから、やはり視認できるビジュアルイメージというのはかなり有用な指標となる。最もビジュアルイメージは強すぎるので、リファレンスを提出する際には、そのイメージに引っ張られ過ぎてしまうこともあるので注意は必要だが。
スタッフに伝える際に、あえて細かい言語処理を行わない手法もある。時にはテーマワードだけを共有し、言語の曖昧さを利用し、スタッフに任せて具体的な細かいところを決めてもらったり、話し合いの中でセッションして生んでいったりする。こうすると、イメージの図像のズレが、思いもしない乱数の掛け合わせを生み、自分の凝り固まったイメージだけでは考えつかなかったモノが生まれる場合がある。
直感の大枠のイメージがしっかりと決められていれば、細かいディテールは意外とどうなってもそこまで影響がない場合が多い。ディテールは、後ほどコントロールしてチューニングすればいい場合もある。
しかし反対に、細かいディテールの積み重ねが大枠に影響してくることも多分にある。ディテールに対して巨視的視点を持ち合わせていないと、上手く最終的なイメージの着地点をコントロールすることができない。(この辺は観察におけるミクロ視点とマクロ視点の重要性の話になってくる。)
マクロ視点を持つために、言語思考において大事なのは「テーマワード」であり、視覚思考において大事なのは「パッと見」である。この2つをしっかりと意識しておかないと、巨視的視点がなくなってしまい、結果がブレることになる。
そして言語思考と視覚思考、これらの運用が他者に対してどう作用するかは、もう塩梅を見ながら運用するしかない。
この辺が一番監督として難しいところだし、また醍醐味でもある。
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▪️余談の余談。
振り返って、
「視覚思考」と書くと分かりづらいと思った。
「視覚感受」の方がニュアンスが近いだろう。
そして「思考」という言葉は、
一般的には左脳で考えることを指しそうだが、
私的には右脳で"思い"、左脳で"考える"、という、
直観に繋がる言葉として認識している。
「言語思考」や「視覚思考」より、
言葉としてニュアンスが近いのは、
「言語考え」
「視覚思い」
か?
これもあんまりしっくりこないけど。