詩と刺繍のもつヴァルネラブルを揺さぶる力
詩と刺繍って似ているな、とふとした今日の思いつき。
去年の暮れあたりから心が動いて、天然石だけではなく
かつてオートクチュールに使われていた、古いビーズを取り入れてアクセサリーを製作してみているからかもしれない。
詩を読むのはもともと好きなので、腸の内側でこの2つの何かが共振したのだと思う。
詩(ことば)を集めて詩集を「編む」
刺(さしていくこと)を集めて刺繍を、糸を「編む」
使われる言葉もちょっと似ている。
言葉や文章をeditするのに「編集=編み集める」という言い方をするのも面白い
あるかたまりの中から言葉を文を選び、まとめ、カタチにすることには
もしかすると、編む、紡ぐ、綴るといった〈糸へん〉の動き、
針で糸を運んで置いていくという手の作業に似たことを
アタマの中でやっているのかもしれないなと思う。
なんにしろ
詩集も刺繍もとてもエッセンシャル(本質的)。
それに出会ったときに読むでも見るでもなくて「触れる」という言葉を使いたくなるような
プリントされたパターン(柄)よりも、たった1つの模様を描くのに圧倒的に凝縮したエネルギーと手数が必要なところ
幅広い量をつくりだすためのものではないところ
1つのモチーフや想いをぎゅっと凝視して凝縮してかたちに表すところ
特別な時や、その人のパーソナルな部分に深くよりそうものであるところ
と書いてみても似たところが沢山ある。
こんなことを思いついたのは
刺繍作家の沖潤子さんの展示を観にいったから。
ものづくりする人々の言葉のパワー
「刺繍をさしているときというのは、沖さんの中でどんなフィーリングがあるのですか?」
と以前の個展の際にお聞きしたことがあって
その時のお返事が、
私はもうすごい一篇の詩を聴いたと思ったのだ。
「もう明日には刺繍することができなくなるかもしれない。
情熱が、感性が今日を限りに永遠に失われてしまうかもしれないという想いに急き立てられながら毎日さしています」
「刺繍しているときは何も考えていません。ただ、針と糸が布のあいだを這っていく、
すうっという感触が蛇が地を這うようだなぁと思いながらしています」
ね、すごいでしょう~。
一度聴いたら忘れられない言葉には詩のパワーがある。
それがどんなものかというと
たとえば聴いたり見たひとの内側に
「生々しい感情とか感覚、ある独特の世界、異界そのものに、今わたしはじかに触った」
という本能的な体験をもたらすもの。
日常やインスタントに作られるものや
量産されるもの、世間話や何かのための会話術の中には存在しない。
リアルなバイブレーションから紡がれたものだけが
誰かを震えさせるエッセンシャルなものになるのだと思うのです。