「除夜の鐘」の如くやる『悪夢を終わらせる黒いノート』の『ライティング・マラソン』(『ポモドーロ・テクニック』を添えて)
この記事が、
「なんの救いも産まれはしないと分かりきっているものの、現状をなんとかしないと自堕落でセルフネグレクトまっしぐら」
の方への劇薬じみた粗治療に少しでもなれば幸い。
元ネタ
手前味噌過ぎるが、最近は『独学大全』で有名になった読書猿氏のこれらの記事である。
悪夢を終わらせる黒いノート
「自分の書く文章は価値がない」を抜け出すライティング・マラソンという方法←自己検閲を振り切って書きなぐるために
目的
自分の言い訳を良いだけ言語化して、心理的安全基地を確保する。あわよくば、
「具体的にどうするか、どうしたいか、妥協点は……」
を抽出できたら儲けもの。
『心理的安全基地』という「自分の存在が認められる場」という幻想
「自分の居場所を得るために、世の中に何をしてきた?」 -- 海外ドラマ『ユートピア 悪のウィルス』内のセリフ(筆者のうろ覚え)
ここ最近は『心理的安全性』や『心理的安全基地』というワードがまま重要視されている様子を見受けられる。
筆者個人は大変良い事だと思うし、即時で生産する価値と利益に重きを置かれてばかりの社会で疲弊仕切っている人達には尚の事と思う。
とはいえだ、その『心理的安全基地』を求めているばかりで傍若無人な振る舞いをしていると、筆者の様に派遣先・派遣元共々で『キジルシ』の烙印を押され、社会不適合者だったのかなったのかは定かではないが、地域包括支援組織の手を借りながら生活保護を受給する様な生活になりさがってしまう。
とりあえず、
「キジルシの烙印を押されて廃人同然にはなりたくない」
という人が多いかと私個人は勝手に思うので、タイトルの様な行為を提案する。
『黒いノート』が『心理的安全基地』になりうる筆者の詭弁
大前提として、
「『心理的安全基地』が必ず提供される機会は皆無に等しい」
という筆者の偏見がある。
理由は、
「当人の支離滅裂な妄想や言い訳を聞いた上で、その様な妄想や言い訳に対して当人の過去の体験を踏まえた上で的確な指摘をする様な他人が居る訳は無い」
というこれまた偏見ではある。
しかしながら、
「他人の貴重な時間を奪ってまであなたの問題に付き合ってもらいつつも、その回答にあなたが違和感を感じて癇癪を起こしてしまう」
様な事が多いなら、あなたにとっての心理的安全基地はそこでは無いだろう。と筆者は勝手に空想で話す。というのも筆者が先に述べた『あなた』そのものだからである。
『癇癪』と言うと「他人や物に当たり散らす」仕草を連想するかもしれないが筆者個人は、
「自身に当たり散らす」
事も含めて『癇癪』と述べてしまった。要は、
「苛立ちを解消する為にその辺のテキトーな対象物を、物理や言葉は問わずに苛立ちが解消するまで殴り続ける」
行為の事を『癇癪』と喩えた。
閑話休題、
「『黒いノート』が『心理的安全性基地』になる詭弁」
についてだ。
この詭弁の前提には、
「書いた言葉が自分を傷つける事は無い。なぜならそれはちょっとさっきまでの自分の支離滅裂な妄想や言い訳だから」
という割り切りがある。
この前提も詭弁なので人によっては、
「自分で自分の書いた自分を惨めな気持ちにする言葉にも惨めな気持ちになる」
という人がいる事も想像できる。というより筆者が未だにそうである。
そういった場合は、後述するやり方で1セッション(25分間ひたすら書く)終えた後、一晩置いて翌日熟読せずに読み流し、書いた物をビリビリに破いた上で水をすぐに出せる場所で燃やし、灰になっていく自分の言葉を眺めると良いかもしれない。
いずれにせよ、『心理的安全基地』を他人に頼らず「その時その場」だけで突貫で確保するという手法と思っていただければ幸いである。
やり方
この前提の上で自分の書いた言葉の段落や文節毎に『Nバック課題』よろしくの調子で、
「その段落や文節の主張に至った理由は?」
と、ちょっと過去の自分に対して切り込んでいく。もしくはその段落や文節に対して反論や反証を出す。
そしてまたそこで支離滅裂に思える妄想や言い訳、なんなら愚痴が出てくるだろう。そしてまた、
「その段落や文節の主張に至った理由は?」
と切り込む。と言う事を繰り返す。
こうしている間に運が良ければ、
「じゃあ自分は今後どうしたいのか、どうなったら都合が良いのか」
という気づきが生まれるかもしれない。ここでその『気づき』を書いてみる。違和感を感じたら即座にその違和感を良心の呵責や自尊心などをかなぐり捨てて、
「……とはいうけど誰かが許さない」
と書いてしまって良い。
という様な事を、25分手を止めることなくひたすら書いて、5分休憩(その際は書いた内容を流し読みできると良いかもしれない。が、無茶してやる必要はない)してはまた25分書いて……とポモドーロ・テクニックの要領でやる。なおこの30分を1セッションと定義する。
このセッションを3,4回ほどやった後は、できるなら人との交流は控え情報を得たり発信も控えて、ボーッとするなりお風呂に入るなり水タバコを燻らすなり瞑想するなりした方が良いと筆者は思う。
そしてまたそのボーッとしてる間に惨めな気持ちになってきたら、また4セッションほど取り組んでしまおう。
その紙片、除夜の鐘に乗せる煩悩の如く
なんでまたこんな陰気な行為を年の瀬に書いてしまったかといえば、年の瀬だからである。
除夜の鐘を聞きながら、その鐘の音に乗せたい煩悩をまざまざと書き散らし、せめて大晦日の日だけは『心理的安全基地』に入り浸ってみてはどうだろう。
書いた紙片は初日の出と共に火にくべてしまうのが一興と筆者個人としては思う。
蛇足
筆者個人、この記事はここで紹介したセッションを1度終えて見たあとで、
「おや? これは何か価値あるものな気がする」
と認めてしまった為に書いてしまった次第である。
つまり筆者自身も、
「他者による『心理的安全基地』」
を求めての振る舞いとしてのこの記事の公開なのだ。