【光る君へ】紫式部の娘・大弐三位は超優秀な女房だった!
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よろづの言の葉を愛する古典Vtuber、よろづ萩葉です🖌️
今回は、大弐三位という歌人についてお話ししていきます。
大弐三位の家族
大弐三位の本名は、藤原賢子(けんし/かたこ)。
源氏物語の作者で今年の大河ドラマ「光る君へ」の主人公である紫式部の娘です。
父親は、藤原宣孝。
紫式部の一回り年上の夫で、紫式部は正妻ではありませんが夫婦仲は良く、
2人の和歌のやり取りも残されています。
ですが宣孝は、賢子が生まれてわずか2年ほどで亡くなってしまいます。
夫を亡くした悲しみから紫式部は生きていく気力を失いますが、
宣孝の忘れ形見である娘を1人残して出家するわけにもいきません。
その頃、心の拠り所として書き始めたのが源氏物語だと言われています。
賢子が病気にかかった時の和歌が紫式部集にあります。
母の祈りが通じたのか、賢子は無事に回復しました。
賢子が6歳くらいの時、紫式部は中宮彰子のもとに仕え始めます。
紫式部は再婚をしていないので、この頃は紫式部の父・為時が賢子の面倒を見ていたと言われています。
紫式部がかつて住んでいた場所は現在「廬山寺」というお寺になっていますが、賢子も幼少期をこの場所で過ごしたそうです。
中宮彰子に仕えた紫式部によって書かれた、紫式部日記。
大半は彰子の出産について書かれていますが、途中には消息体で書かれた部分があります。
彰子のサロンのことや女房の心得などが書かれており、これは娘のために書かれたものだという説(諸説あり)があります。
実際に読者を想定して書かれているのかどうか定かではありませんが、
賢子は母の跡を継いで、中宮彰子の女房として出仕します。
生涯
母親譲りの文才を生かして、優れた歌人として活躍しました。
紫式部とは違い明るく自由な性格で、多くの男性と恋をしたようです。
性格は宣孝に似たのかもしれません。
やがて、藤原道長の兄である道兼の子・兼隆(諸説あり)と結婚し、
一条天皇と彰子の孫・親仁親王、のちの後冷泉天皇の乳母となりました。
当時の乳母は養育も担っていたらしく、彰子のサロンの中から優秀な女房として賢子が選ばれたと考えられています。
これが、賢子の出世の第一歩でした。
夫の兼隆とは数年で離婚。
賢子が30代半ばの時に、高階成章と再婚します。
そして後冷泉天皇が即位すると、天皇に仕える従三位典侍に昇格します。
この頃は藤三位と呼ばれていたようです。
夫の成章が大宰府の次官に任命されて、大弐三位と呼ばれるようになりました。
単身赴任だったようですが大弐三位は、夫のために京都から九州へ会いに行ったという逸話があります。
当時の交通手段を考えるとすごいことですね。
文才
紫式部が書いた源氏物語ですが、実は最後の宇治十帖は作者が別であるという説があります(匂宮、紅梅、竹河も別とも)。
紫式部の跡を継いで源氏物語の続きを書いたのではないかと言われているのが、娘である大弐三位です。
母親の文才を受け継いでいたのなら、可能性はありそうですよね。
ただ実際のところはよくわかっていません。
大弐三位の和歌は、後拾遺和歌集や新勅撰和歌集などに多く収録されています。
なんと80歳頃まで現役で、内裏での歌合に和歌を出していたようです。
亡くなった年は定かではありませんが、彼女は80代まで生きたそうです。
和歌① ありま山…
最後に、大弐三位の和歌をご紹介しますね。
こちらは百人一首に収められている和歌。
この歌には、
しばらく会いに来なかった男が「心変わりされていないか不安です」と言ってきたので詠んだ、という詞書がつけられています。
多くの恋を経験してきた大弐三位らしい返しのような気がしますね。
和歌② 定頼との贈答歌
もう一つ、藤原公任の息子・定頼との和歌のやり取りをご紹介します。
こちらは新古今和歌集に収録されている和歌です。
この2人は元々恋人同士だったと言われています。
二世歌人たち
定頼も父親譲りの和歌の才能で活躍した歌人で、いろんな女性と付き合っていたエピソードが残されています。
大弐三位と少し境遇が似ていますね。
定頼といえば、小式部内侍が「大江山」の和歌を詠んだ相手でもあります。
小式部内侍は、中宮彰子に仕えた和泉式部の娘。
和泉式部は紫式部の同僚です。
公任、紫式部、和泉式部は同じ時代を生きた有名な歌人ですが、
その娘や息子たちも優れた歌人として交流していたんです。
最後までお読みいただきありがとうございました🖌️
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