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【光る君へ】紫式部集より、紫式部と宣孝の和歌をご紹介します!

こんにちは!
よろづの言の葉を愛する古典Vtuber、よろづ萩葉です🖌️
今回は大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部と、
その夫・藤原宣孝との和歌のやり取りのお話です。

ここで取り上げている和歌の意味は諸説あるものもありますが、通説を採用しています。


紫式部集

夫婦の和歌は、紫式部集に収録されています。
紫式部集は紫式部が詠んだ和歌や、親しい人とやりとりした和歌などが集められた家集で、
紫式部本人が晩年、自分の人生を振り返って作ったとされています。
人生の中で特に大切にしていた和歌を集めて、その和歌に説明も添えて、
日記のように残したんです。


宣孝と紫式部の関係

和歌を見ていく前に、簡単に宣孝と紫式部の関係をお話ししますね。

宣孝は、紫式部より20歳ほど年上です。
紫式部の他にも妻が何人もいて、紫式部と同じくらいの歳の子どももいました。

紫式部は宣孝と結婚する前、父の為時の赴任先である越前国(今の福井県)へ付いて行っていました。
京都に住んでいた宣孝は、越前国にいる紫式部に度々プロポーズの手紙を送っていました。

越前で一年過ごしたのち、紫式部は為時を残して京都に帰ります。
そして宣孝と結婚。
紫式部が1人で帰京した理由は謎ですが、
結婚するために帰京したのではないかとする説があります。

結婚したとはいえ宣孝には正妻が別にいたので、2人が一緒に住むことはありません。
正妻以外の妻は通い婚が普通でした。
紫式部は家で宣孝が会いにくるのを待つ生活だったんです。

紫式部が越前にいた頃はもちろんのこと、京都で結婚して夫婦になってからも、この2人は多くの和歌を贈り合いました。
ということでここからは、紫式部集に収録されている2人の手紙のやり取りをいくつか見ていきましょう。


紫式部を口説く宣孝

年かへりて、「唐人見に行かむ」といひける人の、
「春は解くるものと、いかで知らせたてまつらむ」といひたるに

(年が明けたら「唐人を見に越前に行くよ」と言っていた宣孝が、「春になったら氷は溶けると、あなたにどう伝えたら良いか」という手紙を送ってきたので)

春なれど白嶺のみゆきいやつもり 解くべきほどのいつとなきかな 紫式部
(春になっても、山の雪はまだ積もっていていつ解けるかはわかりません)

紫式部集

紫式部のつれない態度を氷に例えています。
まだ紫式部が宣孝からのプロポーズを受け入れていなかった頃の和歌ですね。

とは言ってもこの時代、本当にその気が無ければ女性から返事をすることはありません
宣孝からの恋文に返事を返しているということは、紫式部にもその気があったということになります。
宣孝も当然そのことはわかっていたと思われます。

わざわざこの和歌を紫式部集に残しているということは、この頃から結婚を前向きに考え始めたということかもしれません。


夫婦喧嘩

文散らしけりと聞きて、「ありし文ども、取り集めておこせずは、
返りごと書かじ」と、ことばにてのみ言ひやりければ、「みな、おこす」とて、いみじく怨じたりければ、正月十日ばかりのことなりけり

(宣孝が紫式部からの手紙を他の人に見せたという話を聞き、
「私が今まで贈った手紙を全部返してくれないなら、もう返事はしません」
と伝えたところ、「全部返す」と恨み言を言ってきた)

閉ぢたりし上の薄氷解けながら さは絶えねとや山の下水 紫式部
(閉ざされていた氷は解けたのに、私たちの関係は終わったというのですか?) 

紫式部集

「氷が解ける」という表現、見覚えがありますね。
越前にいた頃はまだ溶けていなかった紫式部の心が、今は溶けているということです。
付き合う前のやり取りを入れるなんて、紫式部、さすがですね。
ちなみに手紙を全部返すというのは、絶交するという意味があります。

宣孝から返事が届きます。

すかされて、いと暗うなりたるに、おこせたる
(紫式部に宥められて、暗くなってるのに返事が来た)

東風に解くるばかりを底見ゆる 石間の水は絶えば絶えなむ 藤原宣孝
(東風で解けるくらいの氷なら、底の見える石の間の水のように、私たちの仲が絶えるなら絶えればいい)

紫式部集

2人の夫婦喧嘩のシーンです。
言葉通り受け取ると宣孝は絶交したがっているように見えるかもしれませんが、この2人のやりとりはもう少し続きます。

「今は、ものも聞えじ」と、腹だちたれば、笑ひて、返し
(「お前にはもう何も言わない」と宣孝は怒っているので、紫式部は笑って返事をした)

言ひ絶えばさこそは絶えめなにかその みはらの池をつつみしもせむ
(あなたが終わりというなら、それでもいいです。あなたの怒りを抑えるなんてできないので) 

夜中ばかりに、又
(夜中にまた返事が来て)

たけからぬ人かずなみはわきかへり みはらの池に立てどかひなし  
(立派でなく人並みでない私が腹を立ててもしょうがないね)

紫式部集

実はさっきの和歌(言ひ絶えば〜)には、掛詞が二つも入っていたんです。
(みはらの池/腹立ち、堤/慎み)
そんな和歌を詠まれたら、もう勝てない…ということで、宣孝の方が先に折れて夫婦喧嘩はおしまい。
もう絶交だと言いながらもお互いしっかり返事を贈っているので、このやりとりは本気の喧嘩ではないと考えられています。
相手を信頼していなければこんな和歌は贈れないと思うので、なんだか微笑ましいです。

元はといえば宣孝が紫式部からの手紙を他の人に見せたことが、喧嘩の始まりでした。
恋人同士の秘密のやり取りを他の人に見せられた紫式部が怒る気持ちはわかりますが、宣孝は、頭の良い恋人を自慢したかったのでしょうか。
だとしたら、惚気ていたのかもしれませんね。


幸せなやり取り

次は、2人の仲の良いやりとり。

桜を瓶に挿して見るに、取りもあへず散りければ、桃の花を見やりて
(桜を瓶に挿して見ていたらすぐに散ってしまったので、桃の花を見て)

折りて見ば近まさりせよ桃の花 思ひぐまなき桜惜しまじ  紫式部
(折って近くで見るほど綺麗な桃の花。私の気持ちも知らないで散る桜に未練はない)

返し、人
(宣孝からの返歌)

ももといふ名もあるものを時の間に 散る桜には思ひおとさじ 藤原宣孝
(百という名もあるのだから、あっという間に散る桜より劣っているとは思わないよ)

紫式部集

宣孝の前妻を桜に、紫式部を桃に例えています。
幸せなやり取りですね。


宣孝の死後

やがて2人の間には娘が生まれますが、
結婚してわずか3年で宣孝は病気のため亡くなってしまうのです。

紫式部集には、宣孝の死を受けて悲しむ和歌も収録されています。

見し人のけぶりとなりし夕べより 名ぞむつましき塩釜の浦 紫式部
(あの人が荼毘に付されて煙になってしまったその夜から、(海藻を焼いて塩をとる)陸奥国の塩釜に親しみを感じてしまう)

紫式部集

悲しい和歌が続いた後、宣孝からのプロポーズが収録されています。


宣孝からのプロポーズ

けぢかくて誰も心は見えにけむ ことはへだてぬちぎりともがな 藤原宣孝
(親しくなって誰にも私の心はわかったでしょうから、あなたと隔てのない仲になりたい)

紫式部集

そして紫式部からの返歌が二首続きます。

へだてじと慣らひしほどに夏衣 うすき心をまづ知られぬる 紫式部
(私は隔てまいとしていたのに、夏衣のように薄いあなたの気持ちがわかりました)

峯寒み岩間こほれる谷水の 行末しもぞ深くなるらむ 紫式部
(冬の峯は寒いので、谷間を流れる水も凍って浅いけれど、春になれば解けるように私たちの仲も深くなるでしょう)

紫式部集

こうして2人は結婚することになったようです。


側室の苦しさ

正妻でなかった紫式部の悲しみが伝わってくる和歌です。

人のおこせたる
(宣孝からの和歌)
うちしのび嘆きあかせばしののめの ほがらかにだに夢を見ぬかな 藤原宣孝
(あなたに会いたいと隠れて嘆いているうちに夜が明けたので、あなたの夢を見ることもできなかった)  

七月ついたちごろ、あけぼのなりけり。返し
(七月一日頃の明け方のことだった。紫式部からの返歌)

しののめの空霧りわたりいつしかと 秋のけしきに世はなりにけり 紫式部
(夜明けの空は霧がたちこめていつのまにか秋の景色になってしまったように、私のことも飽きてしまったのですね)

七日
(七月七日の七夕)

おほかたを思へばゆゆし天の川 今日の逢ふ瀬はうらやまれけり 紫式部
(ふつうに考えたら不吉ですが、織姫と彦星の年に一度の逢瀬がうらやましい)

返し
(宣孝からの返歌 )

天の川逢ふ瀬は雲のよそに見て 絶えぬちぎりし世々にあせずは 藤原宣孝
(天の川の逢瀬はよその雲のこと。絶えないふたりの仲が末永くさめないならば)

紫式部集

夫婦喧嘩では宣孝に勝った紫式部でしたが、
なかなか会いに来てくれない夫にこんな和歌も贈っているんですね。
織姫と彦星を羨ましいと思う一面もあったんです。


宣孝の浮気に対して…

これは結婚前のことですが、

近江の守の娘懸想ずと聞く人の、「二心なし」とつねにいひわたりければ、うるさがりて
(浮気はしないと言っているくせに他の女性を口説いてるという噂を聞いたので煩わしく思って)

みづうみに友よぶ千鳥ことならば 八十の湊に声絶えなせそ 紫式部
(湖で友を呼ぶ千鳥、それならいっそたくさんの湊で(女性に)声をかけてはいかがですか)

紫式部集

という話もあります。
「あなたはいろんな女性に声をかけたらいいんじゃないの?」ということです。
宣孝の浮気性を知った上で結婚をしたというのをどう考えるか難しいところですが、宣孝も紫式部も、こういったやり取りを楽しんでいたのかもしれませんね。


清少納言を批判

やがて宮中で働くことになった紫式部は紫式部日記を書くことになりますが、そこには枕草子の作者・清少納言の悪口が書かれています。
実は清少納言は枕草子の中で、宣孝のことを馬鹿にしているんです。

(意訳)
御岳詣は質素な装束でいくべきなのに藤原宣孝様は派手な格好だったとか。
ご利益はあったらしいけど、みんな呆れていたらしいわ。

枕草子

(意訳)
清少納言こそ、得意顔でとても偉そうにしていた人よ。
あんなにも賢そうに漢字を書き散らしてるけど、よく見たら間違ってるわ。

紫式部日記

それを読んだ紫式部が怒って清少納言の悪口を書いた…なんていう話もあったりしますが、
紫式部日記は個人的な日記ではなく仕事として書かれたものなので、実際の紫式部が何を考えていたかはわかりません。


紫式部と宣孝の和歌のやり取りを見ていきましたが、いかがでしたか?
源氏物語や紫式部日記とはまた違った紫式部の姿を、感じていただけたら嬉しいです。

最後までお読みくださりありがとうございました🖌️


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