黄昏と占い
お彼岸を過ぎると日暮れが遅くなり、真っ暗になった道をとぼとぼと帰宅することが少なくなった。いわゆる「たそがれ」時に家路を急ぐことになるのだが、私自身はこのぼんやりと物の輪郭が判然としない時間帯に出歩いていると妙に気持ちがざわつく。
「たそがれ」の語源は「誰そ彼(たそかれ)」であり、夕刻に薄暗くなって少し先に佇む人が誰か判りにくいことから来ているそうだ。これに関連していえば「かわたれ」という言葉もある。こちらも「彼者誰(かはたれ)」から来ており、専ら払暁の時間に使われるという事である。不思議なもので、同じようにぼんやりした時間帯に使われる言葉だが、”その次”にくる状況の所為か相当印象が異なる。
藤村の「夜明け前」やアメリカ国歌を出すまでもなく、「かわたれ」時には、先行きが不透明で陰鬱と沈んでいた心に、漣が立ってどこからか徐々に力が漲ってくる感じがする。「明ける」とか「明るい」とか「始まる」とか、前向きなイメージが湧く。 逆に「たそがれ」時には明々白々だったものが、迫りくる暗闇の帳とともにボンヤリとして、何か不安な気持ちになってくる。子供のころに遊び仲間のが「カラスが鳴くから帰ろ」と言いながら一人また一人と家路を急ぐ、あの感じだ。「逢魔が時」ではないが、最後まで残った時など”何か”に襲われる気がして慌てたものだ。
昔はそんな時刻に橋の傍に立ち、足早に行き来する人が交わす言葉などで占いをしたといわれている。「橋占(はしうら)」と呼ばれるものだ。橋があるという事は、川が流れており「あちら」と「こちら」があるという事であり、これを「あの世」と「この世」に見立て、橋はこれらを繋ぐもので、行き交う人の中には霊威などを帯びた、人ならざる者もいると感じたのであろう。表情も判らず、足元も危うい「たそがれ」時は、その雰囲気を益々盛り立ててくれる。
同様に、「辻占」というのもあった。道の交差する場所、または分かれる場所で、橋占と同様に通り過ぎる人の言葉などから占ったもののようだ。因みにこの「辻」の事を「道(ち)の股(また)」から「ちまた=巷」と呼び、世間の事を指すようになったと聞いたことがある。百鬼夜行というわけでもないだろうが、「みち」は人のみならず狐狸妖怪、神仏の類も行き来し、夕景にはその両者が辻々で交差して、お互いそうとは知れず言葉を交わしていても不思議ではない。「ちまたでの噂」などという言い様は、神霊の言の葉までも含んだ話として広く信じられたものと思う。だから、言い当てていることも少なくないし、情報元が判然としないことが多いのだろう。
尤も、現在は人工の光がこの「たそがれ」や「かわたれ」を遥か彼方へ追いやってしまった。安心安全が増したといえばそれまでだが、逆に「闇」の持つおどろおどろしさへの警戒や、神威霊威への畏敬の念など、失いたくない伝統が廃れてしまって寂しくなったような気もする。
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