雪影に見たひと
師走の雪は何もかもを白く塗りつぶした。
陰鬱な長い雨、みぞれ雪の日々が続くと、ある朝、窓からしらじらとした光がもれる。
お紺は、目覚めのその瞬間に、大雪が積もったのを知った。
「さて、やらないとね」
戸を開けると、雪明りで目が眩む。一晩で降り積もった雪は、家や道の段差を隠して、まっさらな土地のようにしてしまった。
年の瀬が近づいている。お紺はこの季節が好きだ。
冬の、しんとした空気に神社のような清らかさを感じるのは、新年を白い雪の中で迎える北国育ちの魂の習いなのかもしれない。
それとも、過ぎた季節の白無垢の美しさを、思い出すからだろうか。
雪かきを終えると、手がかじかんでいた。働き詰めで節くれだったその手を包みこんだ人はいなくなって久しいが、お紺の背筋は齢八十を超えても真っすぐで矍鑠かくしゃくとしている。周囲からは「あそこの婆さんはいつまでも達者で大したもんだ」と評判だった。
お紺は店を開けた。主に生活用品を売る小さな店には、決まった客だけが来る。
店番をしながら商品の正月飾りを作った。素朴な縄に、松や、南天を添え、千代紙や水引の飾りをつけたものを淡々と、手早く作っていく。店の中は寒いが、達磨ストーブが一つあれば事足りた。
寒いけれど、売り物の花が長持ちするから、少し寒いくらいで良い。
やってきた一番なじみの客と、リュウマチが痛むから医者に温泉を勧められた話が盛り上がり、いつのまにか戸がかたかたと鳴り始めた。外が吹雪いてきたのだ。
こうも雪がひどくては、今日はもうお客さんは来ない。
慌てて帰って行った客を見送り、黙々と飾りを作っていると、ふと、戸の方が気になった。
見ると、この吹雪の中、戸の摺り硝子に人影が映っている。
……まただ。また来た。
その人影は、懐かしい気配がした。こちらが戸を開けるのを待っているような、そんな素振りが見える。
お紺は勇気を振り絞って呼びかけた。
「あなた、修二郎さんですか」
その言葉に、人影は遠のくように消えてしまった。
戸を開けたが、近くには誰の姿も見えない。足跡も、あったとしてもすぐにかき消されるほどの吹雪だ。
お紺は少しため息をついた。このところ、冬はこんなことが増えたのだ。自分はもう、お迎えが近いのかもしれない。
*
修二郎の幻を見たと言えば、幼いころ父親と死に別れた息子は良い顔をしない。前にもこんなことがあったと息子に話していたら、お袋、頼むからやめてくれ、とあしらわれてしまい、口論になった。
お紺は、お父さんかもしれないのに何でそんな言い方をするんだと咎めたが、息子は冷ややかだった。
「死んだ人は生き返らない、なんでも自分たちでやっていくんだって言ったのはお袋だろ」
それは、夫を亡くしたお紺が、折に触れて一人息子に聞かせた言葉だった。
老いた心には、自身に言い聞かせる意味もあった言葉が今になって突き刺り、乾いた目じりに小さく涙が浮かんだ。それ以来、二人はこの話をしなくなった。
そんなことがあろうと、その人影は、吹雪いた日には変わらず訪れた。お紺は、それを誰に話すこともなく日々を過ごした。
大晦日の夜、息子夫婦が寿司と、酒を持ってやって来た。
お紺も、前日から仕込んだ煮物、なます、栗きんとんなど、手の込んだおせち料理を用意して、息子夫婦と食卓を囲んだ。いつもの年の瀬の食卓だが、東京で暮らす孫は仕事で忙しいと帰らない。息子はそれが気に入らない。
「忙しいからって、こんな時まで顔も出さないで」
寂しいのだろう。息子は酒が入ると、少し愚痴っぽくなる。
「敏美も、そんな時あったでしょう」
笑うお紺に、息子は、あの時お袋には悪いことした、と珍しく気弱そうに返事した。
いいんだよ。お紺の声も小さくなった。
片親の子は馬鹿にされる時代だった。この子が困らないようにと、厳しく躾けた。夢を見るなと凄んだ。
それは、はたして正しいことだったのだろうか。このところ、それが分からなくなる時がある。
「そういや、来年はおやじも五十周忌か」
寺に位牌を納めるんだっけ、との問いにお紺は頷いた。
「そうか。――おれも、おやじの倍以上生きたことになるんだなぁ」
そう呟いた息子の目尻には、皺が寄っていた。昔見た義父の目尻に似ている。もしも、修二郎さんが生きていたなら、同じものが見られたのだろうか。お紺は、ふと、そんな思いにとらわれた。
静かになった食卓に、あら、と息子の妻の明るい声が響いた。彼女がテレビの内容へ話題を変えたのをきっかけに、家族は、少しずつ賑わいを取り戻した。そうだ、とお紺は思う。年の瀬に、悲しいことばかり考えてはいけない。
*
息子夫婦が近所の自宅に帰った後、お紺は店の方へ出た。「三が日はお休みいたします」という貼り紙をするのを忘れていたのだ。勝手知ったる人しか来ない店でも、これをやり残して年を越すのは気が引けた。
戸を開けると、外は吹雪いている。食後に外に出るというのは本当に億劫だが、意を決して表へ飛び出し、戸に貼り紙した。
すぐに戻ろうとすると、誰かに呼ばれたような気がした。振り返ると、そこには、雪の中に立つ人影があった。お紺は息を呑んだ。
「修二郎さん」
お紺の呼びかけに返事は無い。その人影はただ、その場に佇んでいる。吹雪の中、顔ははっきりと見えないが、お紺には確信があった。目の前にいるのも、度々訪れたのも、間違いなく、修二郎さんだ。
「修二郎さん、心配かけてしまったけど、私も敏美も元気でやってますからね」
人影は、わずかに揺らいだように見えた。それが頷いたしぐさにも見えて、お紺の胸ははち切れそうになる。絞り出すように言葉を続けた。
「ずっと、私たちの傍に居てくれたよね。見守ってくれてありがとね」
手を合わせて深々と頭を下げると、穏やかな風が吹いた。お紺を包んでやわらかく吹き抜けたあと、吹雪は止んだ。
しんとした空気の中、そこにはもう誰もいなかった。
お紺は、その風の去り際、合わせた手に懐かしいぬくもりを感じた。
何十年ぶりかで大粒の涙をこぼした。熱い涙は、頬に降った雪を解かしていった。
翌朝、息子夫婦と初詣に行った後、家でくつろいでいると、思わぬお誘いがあった。 雪解けのころ、息子夫婦と孫を交えて旅行に行かないかと言われたのだ。
「おれもいい年だから、少しは孝行させてくれ」
照れくさそうな息子に、お紺もほほ笑んだ。
旅なんて、いつ以来だろう。これを機に、もう自分も肩の力を抜いてもいいのかもしれない。
息子の妻は、笑いあう二人を見つめてひそかに涙をぬぐった。
三が日も終わり、お紺はこの春までと決めて店を開けた。そして、店先の花を一輪、仏前に供えると、そっと手を合わせた。
雪影に見た人影は、もう二度と現れなかった。
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