鏡に映る自分を見るということ <2>
「乙女の像」の構成について、作者である光太郎自身はこんなふうに述べている。
あれ(注:小型のひな形)をこしらえる前までは、一人の賑やかなポーズにして、いろいろポーズを考えたのですが、そうやつているうちに、どうも一人では淋しくて具合が悪いし、ひよつと、湖の上を渡つているときの感じが、自分で自分を見ているような、あるいは自分を見ているというような感じをあのとき受けたのが頭に出て来て、それで同じものを向い合せて、お互いに見合つているような形にしたらと思つて、それでこういうようなものを考え附きました。しかし初めは、同じものを二つ置くというとちよつと類がないものですから躊躇したのですが、かまわないと思つてとうとうそういうふうにこしらえました。
(高村光太郎「裸婦像完成記念会挨拶」 1953年)
なるほど最初は一体の像(しかも賑やかなポージングの)として考えていたが、「湖の上を渡つているときの感じが、自分で自分を見ているような、あるいは自分を見ているというような感じをあのとき受けたのが頭に出て来て、それで同じものを向い合せて、お互いに見合つているような形にしたらと思つて」、二体向かい合わせの像になったというのである。
おそらく、光太郎は彫刻を設置する場所を下見した折、船の上から十和田湖の湖面に映った自分のすがたを見て、いわば水鏡によって、同じものを向かい合わせるというアイディアを思いついたということであろう。
ここで思い起こすのが、若き光太郎が留学先のパリでの出来事を記したエッセイ「珈琲店より」だ。文章の最後のほうを抜き出してみる。
突然、
“TU DORS?”といふ声がして、QUINQUINAの香ひの残つてゐる息が顔にかかつた。大きな青い眼が澄み渡つて二つ見えた。
あをい眼!
その眼の窓から印度洋の紺青の空が見える。多島海の大理石を映してゐるあの海の色が透いて見える。NOTRE DAMEの寺院の色硝子の断片。MONETの夏の林の陰の色。濃いSAPHIRの晶玉をMOSQUÉEの宝蔵で見る神秘の色。
その眼がちらと動くと見ると、
「さあ、起きませう。起きて御飯をたべませう」と女が言つた。案外平凡な事を耳にして、驚いて跳ね起きた。女は、今日CAFÉ UNIVERSITÉで昼飯を喰はうといつた。
ふらふらと立つて洗面器の前へ行つた。熱湯の蛇口をねぢる時、図らず、さうだ、はからずだ。上を見ると見慣れぬ黒い男が寝衣のままで立つてゐる。非常な不愉快と不安と驚愕とが一しよになつて僕を襲つた。尚なほよく見ると、鏡であつた。鏡の中に僕が居るのであつた。
「ああ、僕はやつぱり日本人だ。JAPONAISだ。MONGOLだ。LE JAUNEだ。」と頭の中で弾機(ばね)の外れた様な声がした。
夢の様な心は此の時、AVALANCHEとなつて根から崩れた。その朝、早々に女から逃れた。そして、画室の寒い板の間に長い間坐り込んで、しみじみと苦しい思ひを味はつた。
(高村光太郎「珈琲店より」 1910年)
光太郎は1906(明治39)年から約3年間、彫刻の勉強のため洋行する。ニューヨーク、ロンドンを経て最後はパリに移り、短期間ではあるものの当地の文化・芸術に濃密に触れ、酒と女を覚え、「パリで大人になった」とも語っている。
先に引用した文は、オペラ観劇後に見かけたパリジェンヌ3人組(おそらく玄人であろう)のすがたかたちに彫刻家として魅了された光太郎が、彼女たちを追いかけて入ったカフェで彼女たちに話しかけられ、そのうちの1人と一夜を共にした、その翌朝のワンシーンである。
「非常な不愉快と不安と驚愕」をもたらした黒い男は、はからずも鏡に映った自分であった。その鏡の中の自分を見て、「日本人だ、モンゴロイドだ、黄色人種だ」と認識したと光太郎は綴る。頭の中でばねの外れたような声がしたというから、よほどの衝撃だったのだろう。西洋に対するコンプレックス、日本・日本人への嫌悪感は、そののち詩「根付の国」などにも表され、光太郎にとっての大きなテーマともなるが、ここでは深く触れないでおく。
注目すべきは「鏡」である。鏡に映った自分を見るという行為は、前述のように「乙女の像」も水鏡によって着想を得ていることから、光太郎の芸術になにがしかの影響を与えているとわたしには感じられるのである。
(次回に続く)