ダンボールコンポストを再開することにした
以前、友達に教えてもらってやってた、ダンボールコンポスト。ダンボール箱の底にダンボールを敷いて補強して、直置きは避けてすのこか何かに置く。基材は確か、ピートモスと籾殻燻炭。割合は…忘れていた。
静岡県富士市のサイトに詳しく書いてあった。助かる。
https://www.city.fuji.shizuoka.jp/kurashi/c0702/rn2ola000002zej9.html
前にやってたときは、できた堆肥からトマトが育って、とても美味しかった。コンポストに混ぜ込んだ中に、生協で購入したトマトの種が混じっていて、その種から発芽して大きなトマトが実ったのだ。こういう、わらしべ長者みたいな幸運がとても好き。うちに来てくれてありがとう。育ってくれて、ありがとう。あのときの生協のトマトは、F1種子じゃなかったんだな。そのことが確認できたのも、嬉しかった。自然の恵み、宝物を分けてもらったと感じた。
以前は国産だった種子が、海外産の輸入品に取って代わられている。
「二度と国民を飢えさせない」という理念を謳った種子法が数年前に廃止された。
自家採種が、種苗法改定(改正 ではないだろう)によって罰則の対象になるという信じられなさ。
F1種子がどんどん増えてきている。
ワタシはいったいナニ様だ。
生きるためには、食。
小学校4年生(だったと思う)の時の社会の授業。日本の産業構造の変化…農地縮小・減反政策・工業の隆盛。「加工貿易中心の工業製品輸出で、日本は発展しています」。…え…?「昔、日本は第一次産業が中心だったけれど、次第に第二次産業中心に代わり、今はサービス業など第三次産業が多くなっています」。…え…?食べるもの、自分の国で作ってなかったらこわいじゃん。うちの田んぼは、おじいちゃんが倒れて寝たきりになってから町に売って、今は工場が建っている。近所の田んぼは、あんまりたくさんお米を作ったらいけないと言われたそうで、水を入れてないところがある。大豆を植えているところもあるけど、草が生えているところもある。田んぼの維持管理は大切で、一度稲を植えるのをやめたところは、また必要になって稲を植えてもすぐには昔のようには収穫できないと聞いた。輸入といっても、外国が意地悪して食べ物を売ってくれなくなったらどうするん。「あの、先生…。日本が発展しているといっても…」。思い切って質問してみた。教室中に笑われる羽目になった。教員も児童も口々に言った。「食糧は買えばいい」「輸入すれば良い」と。農家の子もいたはずだけれど。
私以外の誰も、全然怖くないらしかった。
うっすら覚えている幼い頃、祖父母の家には牛が1頭いた。白黒斑がおしゃれな牛だと思っていた私には、真っ黒な牛なのが残念だった。「和牛だからね」と言われた。私は西洋の牧場風景に憧れていたんだな。白黒の牛、もこもこした羊、金髪碧眼の人たち。日本は、牛も、髪も目も黒いんだな。
田植えの頃には、両親に連れられて祖父母の家に行き、両親は祖父母や近所の人たちと田植えをした。近所の人が手伝いに来てくれるから、田植えの日には近所の人たちのお昼ご飯用の菓子パンをどっさり買い込んで、お茶も大きなやかんに用意して、賑やかだった。子どもにとっては目を見張るイベントだった。
祖父が倒れて、農業をやめた祖父母の家に同居することになった。その前後で、町役場から毎晩のように缶詰めの詰め合わせを持った人が来た。祖母や両親は、困惑しており、缶詰めの詰め合わせは「持って帰ってください」と、受け取ろうとしなかった。農地を町に売ってくれと頼みに来ていたのだと後で知った。そして、うちの田んぼだったところは工場が建った。
実家は、山が迫っているのでせいぜい午後2時までしか陽が当たらない。工場は、敷地全体に夕方まで陽が当たる。住む所は寝に帰るだけだから、先祖は陽当たりのいい所を田んぼにしたわけだ。
「田んぼだった土地は、あのとき売って良かった。おじいちゃんはお米作りが大好きで、お父さん(私の)が大学に行きたいと言っても、『農業をするんだ』と言って許さなかった。高校も普通科に行きたいと言ったのに、実業高校しか許さなかった。でもおじいちゃんが寝たきりになったら、あんなに広い農地があっても仕方がない」と、祖母は言った。
農業を継げと言われて進学を諦めた父は、サラリーマンになり、祖父が元気だった頃は週末に農業をしていた。
「おじいちゃんが元気だった頃は、農業の羽振りが良かった。国を支えているという誇りも持っていたからお父さん(私の)の大学進学も許さなかった。でも、あのまま元気で農業を続けていて、今のように減反させられて農地が荒れてしまう時代になったら悲しかったと思う」と、祖父の死後に祖母が言った。
今になってこんなことを思い出している私は、いったい何をして生きてきたのだろうと考える。
一生懸命生きてきたつもりではあるから、自分を責めているわけではないけれど。
私の中には、祖父やその先祖から伝わる、『農の記憶』があるのだろう。その記憶が、何をしているのかと問うているのだろう。
ダンボールコンポストを再開することだけ決めたら、いろいろ思い出がわいてきた。
まずはこれからダンボールコンポストの材料を用意して、なにかひとつ、在来種の種、F 1でない在来種の種を蒔いて、野菜を育ててみようと思っている。