こんにちはさようなら
12年くらい前に、夫と息子が縁日で買ってきた金魚の、最後の一匹が死にました。
そんなわけで、見様見真似で自作した博士式の循環型水槽を解体することにしました。
この水槽はフィルターを使わず、ポンプとタンクで水を常に流し続けることで水質を維持する水槽でしたが、最初は失敗の連続で、金魚には何度も世界崩壊の危機を味わわせてしまいましたが、最後に作り直して以降の数年は、こまめな苔の掃除はいるものの水質自体は安定して稼働し、金魚もなんとなく居心地良さそうにしているように見えました。
※在りし日の金魚ちゃん
そんな金魚も去り、しばらくはただ水が回るだけの主のいない水槽を眺めていましたが、
「終わったことはそのままにしないほうがいいな」
と思い、先日思いきって全部片付けました。
めっちゃ大変でした。というのもおもしろがって作るうちに最終的には金魚を飼うには大型すぎる代物になってしまい、なので解体するのが大変なのもわかってはいたのですが、やはり途中泣きそうになるくらい大変でした。
しかし作ったのは自分、どう片付ければいいかは知ってるわけで、大変だよ大変だよと泣き言を言いながらも1時間足らずで片付け完了。
本当に久しぶりに、ポンプの音がしない静かなリビングになりました。
物事、必ず始まりがあれば終わりがあります。
お別れの瞬間はたしかにさみしいけど、お別れをやりきってしまえば、さみしさや思い出とは別の、新しい前向きな力が空いたところからまた静かに湧いてきます。
新陳代謝とは自然のサイクルだし、そこに逆らわず柔軟に進むのが、やっぱりきっといちばんいいんだと思います。
あと水槽解体するときに思ったのは、あんな小さな金魚でさえ、生命が生きる上でこんなに老廃物が出るんだということと、その老廃物を腐敗させないためにはこんなにも大きな装置ですらギリギリのサイクルであり、大自然の発酵力にはまったくかなわない、ということでした。
金魚ですらこれ、まして人間は・・・
もはや当たり前になりつつある異常気象や、たったいまも猛威を奮っている疫病など、人間の活動が自然の発酵力を上回る破壊現象であることは明らかです。
体験しないことはわからない、たまたま博士と出会う少し前に我が家にやってきて、わたしの手探りの博士の水槽の試作に一生付き合ってくれて、自分に自然のサイクルの精妙さを教えてくれた金魚ちゃんには、本当に感謝してます。
うちに来てくれて、ありがとうね。
ちなみに水槽の大量の水をバケツに汲み取る際に、塩ビ管などが邪魔で、ちょうどいいアイテムがキッチンのミルクパンしかなかったのですが、食べ物に使うものを金魚の水槽解体に使うのはどうか、とやや迷いながらもそれしか方法がなかったので使いました。
終わってから洗剤でよく洗いつつ、
「どうせならこの小鍋をお別れの儀式の仕上げに使おう」
と思い、金魚ちゃんの価値あるこの世でのお役目ご苦労様と来世での幸運を祈るため、その小鍋で東北名物はらこ飯を作りました。(さすがに金魚の遺体は使えないので鮭を買ってきたよ。当たり前だよ。)
両親のいる岩手に帰れないまま2年、さすがにそろそろはらこ飯食べたかった、という理由もありますが、死んだ金魚ちゃんの水をすくうという穢れに使った小鍋を洗って、そのままお祝いの料理を作ることもなんか、裏表のサイクルっぽくていいなと思いました。
はらこ飯は鮭とイクラですが、金魚と色も同じだし。
なんかこういう死と生の反転みたいなことを、遊び感覚でも大真面目にやってみると、古代の人の意識とつながるような気がします。
いまのように科学も医学もなく、大自然の無慈悲で無差別な生と死に翻弄されるしかなかった古代の人が、混乱した精神を鎮めるために、愛するものとのお別れを受け入れるために、生死を反転させるようなオリジナル行為を必要とした結果、それがいまに伝わる人類のあらゆる儀式らしきものの起源になったんじゃないか、という気がしてきます。
儀式なんて本当は不要なのになんでやるかって、自分がスッキリして前を向くため、ということです。
太古の昔から今に至るまで、人の人生とは、こんにちはとさようならの連続です。
最後はもちろん、この自分自身が、自分とのさようならをしなければならないわけですが・・・
いつか迎えるその瞬間もまた、自分の中ではすべての終わりであると同時に、別の圧倒的な何かのスタートになるんだろうなと思います。
#日記 #エッセイ #生と死 #金魚 #はらこ飯 #哲学 #人生
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