
一生ボロアパートでよかった㉒
あらすじ
自慢だった新築の白い家が、ゴミ屋敷に変貌していく。父はアル中になり、母は蒸発し、私は孤独になった。
ーーー1人の女性が過去を振り返っていく。
アイロンをかけた制服に袖を通すと、ちょうど父の部屋から目覚まし時計の音が聞こえました。私は意を決して自分の部屋を出て、父の部屋の前に立ちました。そして深呼吸を一度だけして、扉を開けました。
「私、今日学校へ行くから」
着替え中の肌着とパンツ姿の父に、そう言いました。ノックをしなかったからか、父は中腰のまま顔だけこちらに向けてビックリしたような顔をしていました。私は返事する時間を与えることなく扉を閉めました。それからすぐに自分の部屋へ戻り、通学カバンの整理をしました。覚悟を口にした余韻のせいでドキドキしていました。おかげで春休み初めにカバンに閉じ込めた通知表が出てきましたが、それに対する動揺は最小限で済みました。
身支度だけでは不安だった覚悟も、言葉にしてみるとずっしりと重みを持ち、私の軽い体重を支えてくれました。風に飛ばされて学校に行けなかったなんて冗談も、これで言わずに済みそうでした。
私は通学の準備を終えると、自分の部屋で昨日買ってもらったクリームパンを食べました。この炭水化物だけの食事にも飽きていたところでした。学校へ行けば、給食が食べられる。それもまた一つの希望という名の私を支える重りになりました。
半額になっていたクリームパンは、期待を裏切らず中身がちょっとしか入っていませんでした。こんなのでは元気がでないな、残念だなと思いながらそれを半分食べた頃、部屋をノックする音が聞こえました。返事はしませんでしたがガチャリと音がして、父の顔が隙間から出てきました。
「お父さん、先に仕事行くけど、気をつけて学校行ってこいな」
父は私のようにすぐに扉を閉めることはせず、私の返事を待っているようでした。仕方なく私が「うん」と短く答えた後も父はなかなか扉を閉めずにいました。まだ何か言いたい事があるようでした。なかなか閉まってくれない扉がそう言っていました。
ようやく扉が閉まったと思った瞬間「いってきます」と聞こえました。
「いってらっしゃい」は言いませんでした。ただ父の「いってきます」という言葉が私の中でこだまして、自然と自分の口からも出てきました。
「いってきます」
それは誰にも届かないだろう細く小さな声でした。僅かな時間その言葉を噛み締めてから、残り半分のクリームパンに齧り付きました。クリームパンの後半には、思ったよりクリームが入っていて少しだけ嬉しくなりました。なんだ、食べ始めた片側にあまりクリームが入っていなかっただけで、後の方にはしっかりクリームが入っていたんじゃないか。齧り付いた口の端からクリームが飛び出ました。私は口の端についたクリームを指で掬って舐めて、なんだか照れ臭くなりました。
私がクリームパンの包装をゴミ袋に入れると、玄関の扉の閉まる音が聞こえました。父が今日も仕事へ行ったと確認できると、自然と私の身体も玄関へ向いました。ガサガサとゴミを掻き分け汚い玄関に辿り着くと、今日も不自然に揃えて置かれた通学用運動靴と対面しました。昨日と同じだと思いました。そうだ、昨日と同じように出ればいい。揃えて置かれた靴を履くと、私の中にまた重りが一つ増えて一段とどっしりと私を支えてくれました。
玄関を出るための一歩は、決して楽ではない重みのある一歩でした。それでも、この一歩は自分のために踏み出さなければならないとわかっていました。
玄関を開けて足を一歩前に踏み出しました。もちろん、昨日と何も変わりませんでした。直射日光に目が眩み、外の匂いがして、澄んだ空気を肌で感じました。
昨日と違ったのは、私の中のいくつかの重りがどっしりと私を支えてくれていた事でした。私は一歩一歩をしっかりと踏みしめ、少しだけ汗をかきながら学校へ向かいました。
その道中、ふと今朝母の気配を感じなかった事を不思議に思いました。朝誰よりも先に起きたのだから、私が母の姿を見ていないのは不自然でした。それなのに、母が仕事へ出かける音さえ聞きませんでした。
まだ、寝てるのかな。
そう心の中で一瞬思いましたが、外の空気の清々しさと日光の暖かさが、そういう面倒なモヤモヤを晴らしてしまいました。
そして私は、風に飛ばされる事なく学校へたどり着く事ができました。
つづく
↓①〜⑩話を簡潔にまとめてます😆
↓①話から最新話までのマガジンです🤗
↓短編小説も書いてます😚