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一生ボロアパートでよかった㉕
あらすじ
自慢だった新築の白い家が、ゴミ屋敷に変貌していく。父はアル中になり、母は蒸発し、私は孤独になった。
ーーー1人の女性が過去を振り返っていく。
休み中の宿題ってなんでしなくちゃいけないんですかね?私は宿題なんてやるなら、それもう休みじゃねーじゃんって思うんですよ。たぶんそういうふうに思うのは私だけではないはずなのに、みんなちゃんと宿題をやってくるからえらいですよね。
私以外にも1人だけ、宿題を忘れたと言う男子がいました。坂ティーにそう申告する際の彼の堂々たる態度は、尊敬に値するものでした。
「せんせー!英語と数学の宿題忘れました!」
宿題をしてこなかったのにどうしてあんなにハツラツとした声が出るのか、私は不思議でした。
「やったんですけどぉ、家に置いてきちゃいましたぁ」
そういうわかりやすい嘘を大声ではっきりと言えるところもすごいと思いました。当時の私にはとても出来なかった芸当です。坂ティーは「野口、お前わかりやすい嘘つくなぁ。明日にはちゃんと出せよ」と呆れ気味の返事をしていました。教室内はクスクスとクラスメイト達の笑い声が漏れていました。
同じ宿題をやっこない人間の間にさえ、こういう差があるんですよね。自分の短所や失敗を笑いに変えられる人と、無言で降伏しているだけの人。私は後者だったわけです。
全ての宿題の提出が終わると、今度はクラスメイト達の自己紹介が始まりました。出席番号順に無難な自己紹介が続きました。名前と所属している部活動、去年頑張った事や今年の抱負など。私は名前以外に喋れる事が全く思い浮かびませんでした。
迫り来る自分の順番に、私は恐怖を感じました。人でも物でもなく"順番"が怖いなんて可笑しいと思われるかもしれません。でも"緊張"なんて生優しい言葉では、その時の感情を表現するのに全く相応しくないのです。目に見える物ではないけど、確実に自分に迫り来る"それ"が私は怖くて仕方ありませんでした。
「じゃあ、次、金井」
そしてその時はやってきました。坂ティーの呼びかけに私は少しだけビクリと反応しましたが、顔を上げる事はできませんでした。しん、と再び教室が静寂に包まれたのを感じました。その日の朝、自分の外にある喧騒に酷い痛みを感じたばかりでしたが、自分に向けられる静寂もまた激痛をもたらすことを、私はこの時初めて知ったかもしれません。
「金井、自己紹介、できるか」
静かな声で坂ティーがもう一度私に問いかけました。私はそこでようやく顔を上げました。伸びた前髪と横髪が私の視界に流れ込みました。その時の私は、井戸から這い出る女性の幽霊のようだったかもしれません。
ただ立ち上がる事はできませんでした。声も出ませんでした。上げた顔を向ける先もわかりませんでした。どこを見つめて、何を喋り出せばいいのか、声の出し方さえその時はわかっていなかったかもしれません。呼吸さえ容易ではありませんでした。気道に栓をされたようでした。ただ吐き出せばいいだけのはずの空気を、私は吐き出せずにいました。肺の中に空気が滞留し、息苦しいと感じ始めた時でした。坂ティーが言いました。
「金井は、また今度自己紹介しようか」
この時すでに長い沈黙が教室内を支配していました。なので、憐れみを纏った坂ティーの小さな声もしっかりと聞くことができました。でもその一言で、私は肺に針を刺されたような気がしました。そして滞留していた空気が漏れていきました。気道の栓が取れたわけではなく、まるで風船のように、穴を開けられた肺がしゅーっと、か細く、ゆっくりと、萎んでいくような感覚でした。本当はちゃんと自分で気道の栓を抜いて、自分の口から吐き出したかった"何か"があったのです。でもそれは私の口から出ることはなく、空気だけが抜けて私の肺の中に残りました。
次の席の子の自己紹介が終わる頃には私の肺はしぼみきっていました。しぼんだ肺では呼吸がしにくかったです。私は緩慢な動きで再び降参の姿勢に戻って、浅い呼吸を繰り返しました。
私の歪んだ矮小なプライドは、自分の小さな失敗さえ許すことが出来ませんでした。いや、今でこそあれを小さな失敗と言えますが、あの時は大失敗だと思ったんですよね。少なくとも、その日の朝に"惨めでもいい"なんて思ったことは脳内から完全に消えていました。それと同じく、その日の朝アイロンで皺なく仕立てた制服の袖は、顔を何度も擦り付けたせいですっかりなよなよになっていました。少し湿っていたかもしれません。
この時の私は絶望に打ちひしがれていました。しかし、そんな状態だった私の記憶にも鮮明に残っているクラスメイトの自己紹介があります。野口くんの自己紹介です。
「野口ハヤトです。部活には入ってません。あ、違う違う、帰宅部の部長やってます。特技は颯爽と帰ることでぇ、あと、えー、歌を歌うことです。えー、じゃあ、歌います。翼をください」
そう言って彼は歌い出したんです。
「いまー、わたしのー、ねがーいごとがー、かなーうなーらばー、つばーさーがーほしーい」
この『翼をください』には衝撃を受けましたね。いやぁ、それはもう、下手くそで。音痴なのに特技と言ってみんなの前で歌えるのが、本当にすごいですよね。
「このーせなかにー、とりーのようにー、しろーいーつーばーさー、つけーてーくーださーいーーーっ」
私が打ちひしがれている間聞こえ続けたこの下手くそな『翼をください』は、私がもたらして尾を引いていたクラスの静寂を和らげていきました。クラスメイト達は再びクスクスと笑い出していました。
「こっのっおっおっぞらーに、つっばっさをっひろーげー、とんでーいきたーいよーーーっ」
サビに入ると抑揚が極端に大きくなり、クラスメイト達は声を出して笑い出しました。もしかしたら野口くんは身振り手振りも加えていたのかもしれません。しかし私はずっと降参の姿勢のまま視界を制服の袖で覆っていましたから、彼の歌う様子はわかりませんでした。今思えば、この時の野口くんの歌っている姿を見てみたかったです。
「かっなっしっみっのっなっいー、じっゆっうっなーそらっへー、つっばっさーはったっめっかっせー、ゆきたーいーーーーーっ」
野口くんは眩しい存在でした。でも憎らしいとも思いました。光が強いと、自分の影が強く見えるからです。私は彼を尊敬し羨ましく思いながらも、それとは反対の多くの感情を持ちました。そして彼の存在がまた私の劣等感を増幅させました。
この野口くんが実はヤングケアラーだったと知ったのは、この自己紹介からずっとずっと後のことでした。
つづく
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