第169回芥川賞候補作品について―受賞予想と感想ー
夏本番を前に、恒例のお祭りがやってきた。
選考会が楽しみだ。
1.受賞予想
本命 :『 ハンチバック 』市川沙央
対抗 :『 それは誠』乗代雄介
大穴 :『我が手の太陽』石田夏穂
(『ハンチバック』と『それは誠』のW受賞になると予想している)
エッジの効いた純文学作品を久しぶりに読んだ。『ハンチバック』が受賞しない理由がもしあるとするなら、説明してって言えるほどの衝撃的な作品だ。候補作があがった直後、デフォルトで『ハンチバック』、プラスもう1作のW受賞になるだろうと思ったが、読み直してみると堂々単独受賞!というパターンもあり得る。「せっかくのお祭りで1作だけというのが寂しいという業界の事情が加われば、もう1作は『エレクトリック』かな~」なんて思っていたのは、乗代作品『それは誠』を残して4作品のみ読了直後のことだった。最後に読んだ乗代作品が私の中の順位を見事にひっくり返した。以下の感想を読んでいただければ、私の惚れこみようがわかるだろう。『エレクトリック』と『それは誠』の主人公、語り手はそれぞれ高3と高2でほぼ同年齢。それを加味しても、読んだときに書かれるべくして書かれた後者により魅かれた。『##NAME##』は予想以上にそして期待以上に心に迫ってくる作品だった。自分の中では『エレクトリック』とあまり差がないくらい。「大穴」というのはこの作品がとれば天変地異のようという意味あいであり、すなわち今回、石田作品(渾身の1作であることは間違いない)の受賞可能性は低いのではないかと思う。
2.感想
以下、読んだ順番で。
①『ハンチバック』
文學界新人賞を受賞し掲載されたとき、正直、あーまた宣伝ありきかぁと思った。でも選考委員全員が褒めているなんてあんまり聞いたことないなぁと思い、掲載誌をめくった。冒頭、はいはい、こんな感じねー、→え、えっ?、へぇー、はあぁぁ……あえなく話に引きずり込まれた。「さぁて読んでやりましょう」と上から目線でページをめくっていた手が震える。ぶちのめされた。文學界新人賞選考委員の先生方も生身の人間だったんだなぁ……本作品、読み手を煽りKnock Outする感じがすごかった。その小説の必然性(要するに作品が書かれる切実な理由)が強く表れていた。作者を突き動かしテキストを排出させているものの存在は作品中に生々しく剥き出しにされて与えられる。
*ラストの解釈について
巷で話題になっている点に触れておこう。「ラストを除き、紗花の創作」と読む人もいるかも知れないが、ラストこそ、井沢釈華による創作だろう。1億5500万の小切手の受けとりを拒まれた釈華は、泥の中に捨てられるように扱われた自分自身を殺すしかなかった。だから自身のツイッターのアカウント名「紗花」に生命を与え、自分自身とはまったく違う健康な体を持った彼女をラストに登場させ、侮辱された自身を葬る手伝いをさせたのだ、田中を罪びとにして。釈華は決して自身の不条理を訴えているのではない。彼女はあまりある財産を親から受けとったために、障害者が抱える問題を実体験したことがないー「障害女性と涅槃の釈華もまたパラレルである気がした」ーそのことで釈華はいっそう自虐したくなる。だから紗花が孕むかも知れないのはせいぜいミニオの子でしかない。
小説家はその手により物語に終止符を打たねばならない運命を背負っている。私は作者の存在をちらつかせてでも、そうやってこの作品を完結させたことに拍手を送りたい。見事なラストだ。
*黒幕は作家「市川沙央」
しかしながら、この作品の感想を述べるにあたってもっと重要なことが他にたくさんある。それについて論じるのは素人の私なんかの仕事ではないから深入りはしない。少しだけ踏みこませて頂く。この作品を書くことによって作者は、日本社会がこれまでいかに障害者(障碍者、障がい者などの表記があるらしいが、核心ではない)に対して配慮を欠き、見ないふりをしてきたか、その歴史と今後の課題を提起していると思われる。何でも1番ねらいで、余計な分野で先に進むことばかり優先してきたツケが回ってきて、今、日本は窮地に立たされている。コロナ対策やマイナンバーカード採用などによって露呈されたデジタル分野の遅れ(多くの国民は、何だよ先進じゃないじゃん!と呆れたはずだ。ある意味自分たちもその原因に加担しているかも知れないのに)、世界の中でどんどん順位を落とすジェンダーギャップ指数……多様性を認めるというごりっぱな姿勢の影には置き去りにされた課題が山積みされている。そういったことを改めて認識させられる。
この作品を読み込むためのヒントはいたるところに散りばめられている。たとえば釈華の表象文化論ゼミの研究テーマだったり、新約ではなく旧約聖書に書かれたエゼキエル書の引用だったり、それらはけっこうペダンティックだ。ちょっとやそっとで調べ切れる内容ではない。モナリザ赤スプレー事件って、ゴッホのひまわりにトマトスープかけた環境活動家の件とレベルが違うじゃん、読書バリアフリー法、愛のテープは違法?……すかさずネットで調べ、愛のテープってとっさにエロのことだと思った無知な自分、ああ恥ずかしい、などなど読みながら学ぶことがたくさんある。すなわち、作者である市川沙央は私たち読者を導きたいのだろう。現実を知れ!もっと学べ!恥じろ!でも、こんな有用な教科書を与えられ、実際に社会に生かすことができるのは誰なんだろうか?そしてその人物に作者の声は届くのだろうか。与えられるテキストを前に、私はただ茫然とした。
ここからは蛇足だけれど、四半世紀ほど小説を書き、応募し続けているワナビのひとりとして自虐的なことを少し。綿矢りさと金原ひとみがWで芥川賞を受賞したとき、エロと若さを作品にぶちこめない自分は筆を折ろうと思った。『ハンチバック』を読んで久々にそんな気分になった。今回自分にないものは、切実さだ。切羽詰まった必然性なんてこれっぽっちもない。そんな自分が書く必要なんてまったくない。
作家市川沙央に、覚悟を決めろ!と言われた気がした。
②『エレクトリック』
とても楽しく読めた。家族の力学がすごく面白い。全体を俯瞰してみると、作者によって構成が念入りに仕込まれているのを感じることができる。何やら意味のある小道具やエピソードをこれでもかと投入してくるのに、文章は読みやすく、ストーリーは流れるように進む。いちいちがユーモアにあふれているから読者を飽きさせない。
達也の父が取引先の社長に取り入るためのウエスタンのアンプも、重要な役目を果たすモチーフのひとつである。「昔の部品が使われている方が、真空率は甘いがかえってその方が音がいい」と聞かされるが、達也はオーディオは怪しいと思う。と同時に、英雄として揺るがなかった父の存在、大人の存在にもあやうさを見い出していく。父の仕事仲間の加藤が痔の手術をするのだが、母とふたりになったときにその話題を口にし母から全否定を食らうシーンでは、父の車の助手席に母の代わりに長居しすぎたのかと反省するその言い草やらがいちいち面白い。青年期後期の達也にとって英雄に等しかった父がそして母が、いつしかただの親になり、春には宇都宮から東京へ出て行くことが示唆される。
物語は1995年現在、阪神淡路大震災、オウム真理教の一連の事件、など世の中を震撼させたできごとが起きるころ。それと並行してインターネットの波が静かに訪れる。友人をネットカフェに行かせ、自宅のマックにスタンバった達也はKと交信するも、応答がなくなる。あの頃のネットはそうだった。検索エンジンなどなかったから個人のブログや掲示板に飛んで微々たる情報を積み上げるしかなかった時代、なつかしいと思いながら読んだ。
千葉作品として非常に重要なポイントであり、ぜひとも言及しなければならないのが、阿久津の存在によって性の芽生えが微妙にゆらぐところだ。『デッドライン』や『オーバーヒート』の源流であることを予感させ、それらの作品にすでに馴染んでいる読者は興奮するだろう。
あっけなく迎えるラストもまた魅力的だ。「アキレスとカメの越えられない無限小」だと思われてその存在が不明だった、ないはずのアンプをあの場所が同居するビルで発見し、アシッドジャズのCDの音を聴きながら飛躍をゆるされ宇宙へと接続していく……
私は作者と同郷なので、東武デパート、オリオン通り、釜川、映画館、二荒山神社などなど、なつかしい映像が頭の中にあふれてきて、なおいっそう楽しく読むことができた。
③『##NAME##』
これは最近の芥川賞候補に現れる「○○枠」なのではないかと疑い、軽い気持ちでページをめくり始めた。チキン、ポテトのべっとりした触覚やバウムクーヘンの口に広がる甘さ、腕の皮膚に浮き上がる汗の不快感、そういったものがリアルに迫ってきて、読者は容易に美砂乃と雪那の日常に接近することができる。甘くて清潔な匂い、みずみずしい肌、泉のように湧き続ける若さのオーラをビシバシ感じる前半。けれど可愛くも美しくも生まれなかった読み手の私は、アイドル歌手が小首をかしげて無垢なふりをするのを揶揄するような人間だから「可愛い女は得だよね~」なんて思いながら、美砂乃も雪那も児童ポルノ禁止法に引っかかるなど思いもよらずに読み進めていた。『両刃のアレックス』の原作者逮捕の報道を雪那が知ったあたりから愕然とする。さらに司法書士事務所の石田さんが「……程度によっては親御さんからの性的虐待とも見做されますから……」のくだりを読んだときには、母親の態度はただの毒親ではなく犯罪にも値するものであることを知ることになる。幼さをアピールしてどんどん若い世代がテレビに登場する時代があった。昨今のアイドル事情はどうだか知らないが、裏では美砂乃や雪那といったような女の子たちが追いつめられていたのだろう。健康的な食事も省略され、思春期のいいところを全部持っていかれ、そうやって搾取される子供たちがいるのだ。前半の無責任な読書を恥じた。
母からもらった名前を捨て、つながりが消えてしまった元アイドルの友人美砂乃にかつて強要された「ゆき」という呼び名を自ら選びとるラストに、じーんとくるものがあった。改名することが母への最大の仕打ちであるとしても、よくある毒母物として読ませない作者の強い意思を感じて、小気味よかった。
④『我が手の太陽』
よくこれだけストイックに書いたなあというのが読後の率直な感想。お仕事小説といったものに分類されるのかも知れないが、専門的な部分を読むのが少しつらかった。溶接工のエースだった伊東のスランプを描くために、これほどの細部が必要だろうか。もちろん、それだけ自負を持ち真面目に仕事に向き合ってきたからこそ、ミスを許せない自分がいるということだろう。緊張や焦りや痛みを伊東と共有することはできたが、破れ目が全くないために息をつめて読むしかなく、終始緊張を強いられる読書になった。数か所に現れる検査員は精神の弱りが見せる幻想妄想であるのかも知れないが、努力して何とかテキストを追ってきた挙句に連れて行かれるのがあのラストだとしたら、少し脱力してしまう。辛口のことを書いて、ごめんなさいの気分。だが、この作品によって「作者が新たな地平を拓いた」ことは間違いない。
⑤『それは誠』
『ハンチバック』は、作者にその物語を書く必然性があるとするなら、『それは誠』は語り手にその必然性がある作品だ。読み始めて「僕が小川楓を撃ち抜いて」いるあたりはあまり気持ちが入らなかった。ところが、「僕」が三班の面々の前で自分の事情をパソコン入力し始め、蔵並が特待生だとわかるあたりから引き込まれ、宮沢賢治の「溺れてる子供」の件を高村先生と話したり、小川楓の腿裏が覗いたときの「ドキッ」をネズミが走ったときにたとえたりするその語り草の妙も相まって、今後の展開が気になり読むことを止められなくなった。『エレクトリック』の達也とほぼ同年代である彼らの成り行きに、読んでいる私自身が巻きこまれているかのような感覚になった。一番深く印象づけられたのは、日野市役所向かいの公園で遭遇する落ち葉きらきらシーン!ここの描写はほんとにすばらしい。
物語を盛り上げているのは「雄弁な僕」だけではない。三班の面々皆キャラがきちんと立っていて、とくに松!彼が存在することでより絆を強くする男性陣のやりとりが最高である。
さらにこの作品を盛り上げるのは、終盤彼らに訪れるスリルとサスペンスだ。280枚もあることを読み手に少しも感じさせず、ぐいぐいラストへ誘う。
感動しきりになったあと、はたと気づく。しかしこれは真実であろうか?忘れてはならないのはこれは「僕」による手記なのだ。信頼できない語り手ってやつだ。そう思ったとたんにいろいろ詮索したくもなるが、いや、やめておこう。この手記は真実が書かれなければならない「確たる理由」(これは作中に明示されているので読んでみて!)が存在するのだ。そしてそれがこの作品が書かれた必然性につながっている。ぜひ、彼らと東京郊外日野市への修学旅行を楽しんでほしい。
乗代雄介という作家は自身が大変な読書家であるということをインタビュー記事で読んだ。膨大な読書と筆力によってこれまでに書かれた作品群は、メタフィクション的な手法を取り入れたものも多く、「書く行為」自体を意識する作り手なのだろう。今回は「僕」という語り手が書いた修学旅行の手記の形をとっているが、群像新人賞受賞作品『十七八より』と比べるとずいぶん雰囲気が違うものになっていて、作家乗代雄介はデビュー以来ずっと進化を遂げてきたものと思われる。個人的には『本物の読書家』が好みだったが、過去に芥川候補にあがった『旅する練習』はずいぶん高評価だったように記憶している。今回、四度目のノミネート。もし受賞したら三班の皆も泣いて喜ぶ(ね、畠中さんww)に違いない。
3.雑記
『ハンチバック』からは衝撃を受け、『それは誠』を読みながら笑ったり泣いたりした。今回の受賞作予想上位には、心を強く動かされた2作品を選ぶことになった。小説を読んだときに自分の中に湧いてくる情動って、とても大切だなあと改めて思った。感動したり落ちこんだり、プラスマイナスどっちでもいいけれどとにかく揺さぶられたい。『エレクトリック』の舞台は出身地宇都宮であり、『それは誠』の三班男性陣が訪れることになった東京日野は現在の生活圏であったり、自分が見知った場所が登場したとあって俄然興味をそそられて読んだ。
芥川賞が発表される 2023年7月19日(水)がとても楽しみだ。
万条 由衣
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