BFC6 二次通過作品『とり、かえす』
むやみやたらに歩き続けていた。息があらくなって勢いがなくなってきた足の運びにいらついて、近くに転がっていたペットボトルを思いっきり蹴り飛ばした。ふいに、見てはいけないものを見たような気がした。くすんだ銀色の和式便器が雨ざらしになっていた。
公園の片すみにあったはずのトイレの建物はあとかたもなく、ただくすんだ銀色の和式便器だけが、あったままの状態で放置されているのだった。見回せば、入り口付近の足元を固めていた石のタイルは中途半端に引っぺがされ、S字型コンクリートに区切られた砂場に大木が二本、根っこを切断された巨体を横たえていた。どうやら、この公園で改修工事が行われているらしい。
立ち去ろうとする意思に反して、足が動かない。くすんだ銀色の便器から目をはなせなかった。それは、とても異質なものに見えた。
見ないようにしようと思えば思うほど、なおさらじっと見てしまう。いつのまにかしゃがみ込んで、それと向き合っていた。受けとめる凹面に汚物はなかった。水洗トイレなのだから当然だろう。それでも恥部を見せられるような落ち着かない気分になった。このままではいけない、何かで隠してやりたい、居ても立っても居られないといった衝動がおしよせ思わず、くすんだ銀色のそれに身を投げ出した。
和式便器なので前方がドームを立てたような形をしていて、そこに抱きつくかっこうをしたら、ちょうどくぼみに頭がすっぽりとはまった。湿った土と朽ちた葉っぱから発せられるカビのような匂いがした。両足が便器からはみ出してしまったので、膝を折り曲げ腹にくっつけた。真夜中、秋の雨に濡れたステンレスの便器は冷たい。でも、数時間歩き続けてうっすら汗がにじんだ身体にはちょうどよかった。
エンジンがうなる音が近づいてきた。身を固くしてステンレス製和式便器の一部になりすました。アスファルトの欠損に車体を揺らした車は通り過ぎていった。すべての喧騒が消えていた。気配といえば、閉じたまぶたに、赤色や青色の信号の光が交互に映り変わるだけだった。頭を囲むドームから自分の呼吸する音がはねかえってくるのを、しばらくじっとして聞いていた。ほどなくして、冷たかった便器の表面が熱を帯びてきた。恥部をさらけ出したみっともないものを、それ以外から守っているつもりが、自分はすっぽり包まれて、ステンレスの便器に守られている。「あなたは、」声にしてしまったら、そう呼ぶことに抵抗はなかった。
これまで、どれだけの人のどれほど大量の排泄物を処理してきたか、あなたの働きを称えてくれるだれかは、もういないのか。もよおして、どうしようもなくなって駆け込んだ人間は多いだろうに。そういうとき、そうなった人たちは、あなたがここにいてくれて心底感謝しただろうし、用を足したあとのあの恍惚とした気持ちが訪れたしゅんかん、こうして私と同じように抱きついて涙を流したりしただろうし、それなのにまったく、こんな仕打ちったらないよね。
ドームからはねかえる音が二重になり、あなたと私はすっかり打ち解けていた。身も心もあずけていると思うと、すべてのしがらみから解放され、金色の草が風になびく大地に抱かれているようだった。もうあの家には帰らない。あそこに自分の居場所などないのだ……決断してみれば、それが最良の道だと思えた。
本来の機能をうばわれて投げ出された私たちは、同情されるべきもの同士だね。けれど、そもそも本来の機能とは何だろう。そんなもの、誰が私たちに与えたというのか。もしあいつによって私に与えられたのなら、その機能は本来の機能ではなく、あいつがあいつの価値観を押しつけているただの決めつけじゃないか。それなのに、「やるべきことをやれ!」だの、「自分自身の存在意義をちゃんと考えろ!」だのともっともらしいことを言って、自分の正当性をアピールするあいつは、いったい何様のつもりなんだ。忘れかけていた怒りが、ふたたびくすぶり始める。いやいや、機能なんて、クソくらえだ。私は自由になってやる。産まれたばかりの赤ん坊みたいにさらにぎゅっと縮こまる。雨粒はごくごく小さくなり、そのほとんどが迷子のように空気中に漂っていた。
寝ころんだまま夜空を見あげたとき、ただならぬ気配がやってきた。みるみるうちに近づいてくるそれは叫ぶように鳴いた。ぎゅあー、と聞こえた。ぎゅういー、だったかも知れない。一羽の大きな鳥が、人間の背丈ほどある羽根を広げていた。着地地点を調整しながら、結果的にはつんのめってわざわざ私のすぐ横に降りた。
「でかっ!」
驚いている間もなく、便器から逃げ出すしかなかった。長くとがったくちばしが、私の両足をつつき始めたのだった。
「痛い痛い、やめて」
仰向けに尻をついたまま両腕と両脚を使って後ろ向きのカニ歩きをしながら便器から遠ざかる。
鳥はひゅん、という音とともに軽くジャンプして、
「あっ!」
声と同時に便器に飛び移った。ぎゅあお、ひと鳴きして天を仰いだ。首をぶるっとふるわせ、静止。それからふたたび墨を塗りたくったような星のない中空へ飛び立った―
我に返って銀色に近づいて見ると、凹面にひとかたまりの汚物が残されていた。エメラルド色の固形物に白い液体が混ざり、波しぶきのような模様を描いていた。
私は途方にくれた。
万条由衣
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