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「世界の名著」を読む  #05

  ジャン・ジャック・ルソー

 今回のテーマである、「世界の名著」のルソーの巻の話をする前に、ポール・アザールの著書「十八世紀ヨーロッパ思想」の話をしたい。70歳を越えた私は、最近、蔵書の断捨離をすすめている。「ブラック・スワン」で有名なナシーム・タレブは、「その人間の書棚の価値は、彼がすでに読んだ本ではなく、これから読もうとしている本にある」という意味のことを書いていて、なるほどと感心したことがある。となれば、既読の本はばっさりと全て手放すのが正しい選択だということになるのだが、これがなかなか簡単にはいかない。本好きの人はおわかりだろうが、若い日々に感銘をうけたりして、愛着のある本を手放すにはかなりの決意を必要とする。我が家の本棚にあふれている書物の半分くらいは、「世界の名著」全集を含めて未読なのだから、既読の本を全て処分しても、かなりの数の本が残るはずだ。とわかっていても、やっぱりだめなんですね。そこで私は考えた。愛着のある本はこれから再読三読するはずだから、当然残す。永年未読のままになっている本を、いちおう目を通してから、どんどん処分していこうと。たとえ感銘を受けたとしても、この年齢になってからはもう読み返すことはないだろうし、愛着が湧く前に処分という作戦です。

 というわけで、ポール・アザールの本の登場。たまたま書店で見つけたこの本を買った理由は二つある。ひとつは、尊敬する桑原武夫さんがポール・アザールを評価していたから。正確に言うと、ポール・アザールの「スタンダール伝」は小説よりも面白いと言っただけなんですが。いずれにしても、それでポール・アザールという学者の名前を知った。もうひとつは、私の年来の18世紀に対する関心。18世紀は、ヨーロッパにおいて百科全書派や啓蒙思想を生んだ輝ける世紀だが、日本や朝鮮、中国という東アジア諸国においても、名君のもと、さまざまな文化が花開いた理性の時代だった。というわけで、ポール・アザール著「十八世紀ヨーロッパ思想」を、高価な専門書であったにも関わらず買ったわけだが、その本は、結局のところ、いつになっても読まれず、長年、私の本棚の片隅で埃をかぶることになって現在に至る。

 余計なことかもしれないが、桑原武夫さんを知らない若い人のために書き加えておくと、桑原武夫先生は京大でフランス文学を講じていた学者で、スタンダールなど翻訳も多い。文化勲章受章者であるとともに、「新京都学派」のリーダーだった。その学派には、梅棹忠夫、鶴見俊輔、梅原猛、多田道太郎といった錚々たる学者たちの他に、司馬遼太郎や小松左京といった小説家も外様として加わっていた。事実、私が司馬遼太郎を熱心に読むようになったきっかけは、桑原教授と司馬さんが、「世界の名著」のミシュレの巻の付録冊子で、対談をしているのを読んだことだった。

 さて、「十八世紀ヨーロッパ思想」。今回、初めて最後まで目を通したのだが、精読したわけではない。いわゆる斜め読み、走り読み、つまみ読みである。主に、ルソーに関する部分だけをちゃんと読んだ。アザールは、18世紀のヨーロッパを、コスモポリタンの時代だったと言っている。アザールによると、18世紀において、コスモポリタンという言葉は、祖国を持たないものという軽蔑の意味から、複数の祖国を持っているものという肯定的評価へと転換した。ルソーはコスモポリタンの一人だった。アザールは、ルソーのことをこう書いている。

 ルソー:スイスから来た野生児。作曲法を学ぶ努力もしないままに作曲する音楽家の卵。生気溢れる逆説的人間。彼は、既存のあらゆる思想に反対して、文学や芸術は人類に害を与えてきたと宣言し、社会的条件の不平等に抗議し、感情を賛美し称賛する。感情はもはや温室に咲く観賞用の花ではなく、何者もその無限の清涼を妨げることのできない野生の力となるであろう。感情は、知性が築き上げてきた大伽藍を突き崩し、その廃墟の上で歓喜の叫びを放つことであろう。

 しかし、この浩瀚な書物でルソーに言及された部分はほんのわずかだった。ディドロ、ヴォルテール、レッシングらにはそれぞれ一章をささげているのに、ルソーの章は存在しなかったのである。でも、訳者あとがきによると、20世紀前半を代表するフランスの碩学であったポール・アザールは、その18世紀ヨーロッパ研究を、「ヨーロッパ精神の危機」と本書「十八世紀ヨーロッパ思想」と構想の段階で終わってしまったもう一書を加えて、三部作で完成するものと考えており、その幻に終わった一書の中心には、ジャン・ジャック・ルソーが据えられていたのだという。だから、この本では、あえてルソーの章を設けなかったのである。いやあ、読みたかったなあ。アザールのルソー。上の短い引用でもわかるように、文学的思想史家と呼ばれたくらい、アザールの文章は実に生彩に富んでいたから。

 というところで、いよいよ「世界の名著」のルソーを読みはじめます。実は、この巻は初めて読むわけではなく再読になる。はじめに書いたように、少年時代から桑原教授を尊敬していた私は、当然ながら、ルソーにも早くから関心を持っていた。新京都学派のリーダーだった桑原教授は、学際的な共同研究の創始者でもあって、その最初の共同研究のテーマがルソーだったからだ。今回、このルソーの巻は、数十年ぶりに読み返したことになる。

 この巻の編集責任者は、当時早稲田の教授だった平岡昇さん。平岡さんは、その解説の冒頭で自らを平凡な読者と規定し、ルソーの思想を巨大な謎、とらえがたい混沌であるが、その思想には常に熱狂か反発を起こさせる魔力があったと書いている。ルソーの思想は、フランス革命やロシア革命をはじめとして現代にまで影響力を持ち、近代民主主義の父とされているわけだが、つい最近も、私たちは東浩紀の「一般意思2.0」という優れたルソー研究を得ることができた。この巻には、ルソーの主要著作である「人間不平等起源論」や「エミール」(抄訳)なども含まれているのだが、ここでは東さん(私より20歳も年少だが尊敬している。)が論じた「社会契約論」を主に読むことにした。

 その前に、平岡さんの解説をもうすこし読んでみることにしよう。平岡さんは、ルソーの生涯を説明するために、ルソー晩年の自伝「告白」を使っている。これしか材料がないから仕方がないわけだが、私が若い頃には、近代小説の淵源として、必読書にあげられていたこの「告白」は、私も人並みに読んだけれど、事前に期待したほどには面白くなくて、ちょっと失望した記憶がある。何が書かれていたのか、内容はすっかり忘れてしまったけれど、今回、平岡さんの解説を読んで、少し思い出した。なるほど、波瀾万丈の人生だ。ジュネーブでは上層階級に属する時計職人の息子として生まれたルソーは浮浪児となり、偶然によって、貴族の女性に拾われて愛人として生活しながらさまざまな読書に励んで教養を磨いた。その後、放浪してパリに出たルソーは、まず音楽家として知られた。教会に属する教師から音楽教育を受けていたルソーは、作曲の能力を持っていたのである。ルソーの作曲した曲は、作曲者の名前を知らないままで、現代においても世界中で演奏されている。パリに進出した音楽家ルソーは、上流家庭で家庭教師などをしながら、当時の著名な哲学者たちとの交際を始めた。中でも特に、ディドロと友情を深めた。そのディドロと相談して著した最初の懸賞論文「学問・芸術論」が、ヨーロッパ中で大きな話題となり、哲学者ルソーが誕生する。彼はこの論文で、学問・芸術が人類を高めるものではなく、逆に堕落させるものだと主張した。ルソーは、次の懸賞論文「人間不平等起源論」を書いて、かつては自然人として平等であった人間が、社会を形成することによって不平等になったと論じ、さらに、彼の考える理想社会を論じる「社会契約論」と理想の教育を論じる「エミール」に着手した。「エミール」の完成には数十年を要した。

 ルソーの生涯のだいたいがわかったところで、いよいよ「社会契約論」を読むことにしよう。ルソーは、各人が自然状態において自己保存できなくなった場合、例えば、財産を奪われて奴隷にならざるをえなくなるといった場合、それに対抗するためには多数の人々が協力しあい、共同の力をあげて、各構成員の財産を防御する必要があるという。しかし、その場合も、各構成員は全体に結合するが、自分自身にしか服従することなく、結合前と同様に自由でなければならないと主張する。確かにそれが理想だが、でも、そんな事は可能なのだろうか。ルソーは、各構成員は、自己をそのあらゆる権利とともに共同体全体に譲り渡すが、特定の誰かに譲り渡すわけではないし、逆に同じ権利を他の構成員から譲られているとも言えるわけだから、結局、各人は喪失した全てのものを得、さらに自分の持つものを保存するためにいっそう多くの力を獲得するのだと言う。そして、まだ論文の冒頭部なのに、早くもあの有名な言葉が説明もなくいきなり登場する。そう、「一般意思」。

 われわれのだれもが自分の身体とあらゆる力を共同にして、一般意思の最高の指揮のもとにおく。そうしてわれわれは、政治体をなすかぎり、各構成員を全体の不可分の部分として受け入れる。

 さて、「一般意思」とは何か。ルソーはこんな風に書いている。

(個々人の意思である)特殊意思は不公平を、一般意思は平等を志向する。だから、この両者の永続的な一致の保証を得るのは不可能である。

 また、こんな事も書いている。

 全体意思は私的利益を注意するもので、特殊意思の総和にすぎない。しかし、この特殊意思から、相殺される過剰の面と不足の面を除去すれば、一般意思がその差の合計として残るのである。

 さらにルソーは言う。

 大きな政治体の中に党派が存在する場合、党派の意思はその構成員に対しては一般意思となり、大きな政治体(たとえば国家=引用者注)に対しては特殊意思となる。

 と、ここまで読んできて思うことは、人民の「一般意思」にもとずいた民主的な国家を作るのは不可能なのじゃないかということですね。事実、ルソー自身がこう書いている。「民主政という用語を厳密に解釈すれば、真の民主政はかつて存在したことがなかったし、これからもけっして存在しないだろう。(略)もしも神々からなる人民があるとすれば、この人民は民主政をもって統治を行うであろう。これほど完璧な政体は人間には適さない。」 

 ルソーの政府の形態に関する考察は、民主政から貴族政、君主政へと続く。そして、ルソーの結論は、君主政は富裕な国民にのみ適するものであり、貴族政は中くらいの国家に適し、民主政は貧しい小国に適するというものだった。では、もっとも良い政府とは何か。ルソーはこう書いている。政治的結合の目的は構成員の保存と繁栄である。となれば、帰化や植民を除いて、単純に、市民が増加し増殖するような政府が、間違いなく最もよい政府である。

 さらにルソーの考察は続く。「政治体の死について」。ここで、政治体もまた人体と同じく、生まれ落ちるとともに死滅への道をたどりはじめると書く。次に、「主権はいかに維持されるか」。ここで、ルソーは直接民主政を説く。主権は代表されえない。主権は本質的に一般意思のなかにあって、しかも一般意思は決して代表されえないものであるから。

 またまた出てきましたね、「一般意思」。「社会契約論」はこの後も続き、ローマの政体をさまざまに考察することで終わるのであるが、私たちは、ここでいよいよ「一般意思」に立ち戻ろう。そこで登場するのが、冒頭に書いた、東浩紀さんの「一般意思2.0」だ。私が持っているのは文庫本だが、巻末に特別掲載されている、(最近、学術会議の問題で有名になった)政治学者・宇野重規さんとの対談を含めて、全体的にとても面白い本なので詳しく内容を紹介したいのだが、この文章は「世界の名著を読む」なので、ここでは、東さんが「一般意思」をどう解釈したかだけを書くことにする。

 東さんが「一般意思2.0」を書いた主要な動機は、東さんによると、ルソーが、おそらくは議論をすすめるために必要なひとつの仮定として採用した「一般意思」というものを、現代の私たちは、技術的に、目に見えて触れるものとして実装できる時代にいるのではないかという気づきだった。技術的に実装するとはどういうことだろうか。東さんは言う。「一般意思は政府の意思ではない。個人の意思の総和でもない。一般意思はなによりも数学的存在である。(略)ルソーのこのような読みは、二世紀以上前の民主主義の出発点に、ウエブ的な集合知との関係がすでに刻まれていた可能性を示唆している。」そして、ツイッターやグーグルという名前が言及される。

 ここまで読めば、たぶん、この本の主要なテーマはおわかりだろうから、後は各自でお読みいただきたい。この、東さん自身は論文ではなくエッセーだと書いている本が書かれたのは10年以上前のことで、現在では東さんの考えはかなり変化していて、ウエブ的なものに対する評価は相当下がっているようだが、それでも、この本は今読んでも十分面白いと思う。ルソーの思想を知るための副読本としてもおすすめする。

 今回の「世界の名著を読む」は、ちょっと変則的な文章になった。まあ、気楽な読書録だから、これでいいか。


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