きのうのこと
昼過ぎ、この日は大佛次郎『砂の上に(光風社)』を手に出掛ける。読書の秋は濫読甚だしく、読了したか否かを差し置いて、日毎に収まらず家を発つ毎に連れてゆく書籍がころころと替わる。旅のあいだ鞄に埋まっていた三冊は無論開きもしなかったのに、家へ帰るときには四冊になっているという体たらくである。
今晩は〈観る会〉の九月度開催ということになっている。作品は『アワレミノサンショウ』で、上映時間が長いことが不安だ。今月は劇場に足を運んでいないから、前回は『箱男』になる。九割五分寝てしまった、あの夜以来ということだ。大丈夫、しっかりお昼寝をしてきた。
会員に本を貸したいと思い、棚を漁る。柳田國男『遠野物語』と井上ひさし『新釈・遠野物語』はなんのこともない、私に遠野の話をさせろと、ただそれだけである。ほかは彼の好みに合いそうなものを見繕うわけだが、これが愉しい。周りに読んでくれる人物が極端に少ないのだから有難いのである。返ってくるのも助かる。
ヨルゴス・ランティモス『哀れみの3章(2024)』を鑑賞。哀れなるものたちを描くオムニバスである本作、救いのない内容が延々と続く。作中に登場する人物らの、明らかに健全でない人との関わり方、或いは生き方は、現代社会にも蔓延る類のものである。都市を生きる上では必須といっても過言ではないのやもしれん。要するに程度の問題か。
そのような服従や懐疑、信仰を、非日常としてどう切り取り、且つ成立させるかというところで本作は愉しめる。その点、服従を描く冒頭の章は、これまで個人的に見なかった類で面白かった。
本を貸すと、誕生日のお祝いとしてティシャツを頂戴した。こうなると頭が上がらない。プリントされた英文がどういう意味なのか聞くと「アルコールは問題を解決しないが─」云々である。いいやそれは間違っている、と、先ほど閉じたばかりの本を開き、得意気に読み上げる。
十月となった。朝方、涼しく過ごし易い。