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《寄稿》 エッセイ 初体験 山本
私にとって「初体験」とは、畏怖の対象である。
具象的な何かが、記憶として私を蝕んでいるのではない。「初体験」というワードそのもののエネルギーが怖い。扁平な人生を熟しているだけであるにも関わらず、それはあたかも高尚なものであるかのように私に迫ってくる。大衆は経験至上主義者ばかりであり、初体験というラベリングは、価値を推し量る上で非常に有用なものである。例を挙げるとするならば、初潮の際に赤飯を炊くという行為もこれに該当するだろう。
そんな強要的且つ強迫的な不穏さが、「初体験」という煌びやかな言葉の陰に潜んでいるように思えて、私はいつだってビクついてしまう。
人生は、自身が経験した事象の集積である。生を享けたその瞬間から死まで、経験というものは逐次的に流れているわけであって、初体験なんてものは所詮経験の内の1つに過ぎないのである。私は、「初体験」に特異な付加価値を見出してしまうことで、人生という大枠で私自身を俯瞰した時に、点在的にしか幸福や利点を享受することができなくなってしまうのではないか、と考える。無駄なことは何一つないという言説に基づけば、経験の価値は分け隔てなく平等であるはずだ。初体験ばかりを重視して、自身の糧となった気になっているその傲慢さこそを、私たちは注意深く批判する必要があるのではないだろうか。
ここまで文章を認めながら私の初体験について顧みたが、やはり前述した理由からパッとするものを挙げることができない。初体験という言葉が意味を持つのは、2回目、3回目と経験を重ねてこそであるはずだが、私は「初体験」だからといって、贔屓目でそれを美化することができないのである。正確には、短絡的に「初」というレッテルで差異を生むことを忌避している。何気ない日常に有り触れている事柄を、同じ感度で捌いていく。それこそが、生活本来の営みであると強固に信じているのである。
「初体験」とは、朝になり目を覚ましてカーテンを開ける、そうすると床に就く前の暗がりから一転して明るくなっている、その程度の転調なのである。
私の思考を、少々卑屈であると非難する人もいるだろう。その通りかもしれない、私はありとあらゆることを恐れている。「初体験」が内包している、人々の意識に強く根付いたエネルギッシュな活力に、伏し目がちで根暗な私が侵されることにもまた、畏怖の念を抱いているのかもしれない。