月と六文銭・第十四章(66)
工作員・田口静香は厚生労働省での新薬承認にまつわる自殺や怪死事件を追い、時には生保営業社員の高島都に扮し、米大手製薬会社の営業社員・ネイサン・ウェインスタインに迫っていた。
田口はターゲットであるウェインスタインの上司・オイダンに狙いを定め、二人きりでのドライブデートに連れ出すことに成功した。後はうまく欲しい情報を引き出せるか、とぼけられてしまうか、となる。確証が得られなかった場合、そのまま田口の命も危険にさらされる可能性が高いため、リスクは大きかったが、殺された同僚デイヴィッドの為に、早急にはっきりさせたかった。
~ファラデーの揺り籠~(66)
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高島がドイツ人営業マンから名刺をもとめなかったのは、アバンチュールをするのに、一夜限りとなる可能性の高い男性に、自分の個人情報を与えたくないと考えていた、と言いたかったのだ。
オイダンもその点はすぐに理解したようだった。
「ああ、そうだよね。僕たちも名刺は交換していないよね。もっとも、ネイサンも僕もペラペラしゃべり過ぎたかな。実はミヤコとネイサンがドライブ行った翌朝、僕はフロントでそれとなく君が本当にタカシマ・ミヤコかを確認したんだ」
「え?」
「気分を悪くされたのなら謝る。この通り、ごめんなさい。さっき話した通り、どんな人が近付いてくるか分からないから、慎重に対応しただけなんだが。少なくとも君は本当にここに泊まっていて、本当にタカシマ・ミヤコで、最初にネイサンを見つけた夜がチェックインした日だったし、僕らよりも一日早くチェックアウトしていったことも事実だった」
高島都は顔色が少し悪くなっていった。
「ごめんなさい、気分を悪くされちゃったよね」
「ヴィンセントは、あんなに楽しそうに話していても、私のことを疑い、ずっと観察していたの?」
「いや、ずっと観察していたわけじゃないよ」
「でも、私がチェックアウトする時までを確認していたってことは、私がネイサンから離れるまでずっと疑いの目で見ていたのよね?」
高島は涙を流し、信じていたダンディなおじさんに裏切られたことを素直に表現した。
「もし、私が産業スパイの疑いがあったら、どうなっていたの?あなたはネイサンと別れさせると言ったけど、それだけで済んだの?」
「どういうことだ?」
「私、見ちゃったの」
「何を?」
「たまたまランチパーティがあって、服に着替えるため、昼前にホテルに戻ってきたの。そうしたら、私に声を掛けてきたドイツ人が救急車で運ばれて行くのを見たの。一番近くにある病院に知人がいたから、聞いたら、多分あの人ねって、亡くなったって教えてくれたの」
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オイダンが何も言わないところを見ると図星のようだ。
「ごめんなさい、次のランプで降りて私を下ろしてくださる」
「いや、ホテルまで送るよ」
「ごめんなさい、このまま乗っているのは、私には難しいと思うの。気分が良くないの。車の中で戻したりしたら困るでしょ?」
「タクシーを拾って帰るのか?」
「少し、どこかで落ち着くまで、座っているわ。楽しい時間を台無しにしてしまって、本当にごめんなさい」
「ミヤコ、分かってほしい。僕らの世界は厳しい競争に晒されているんだ」
「分かっているわ。私だって狭い地域で厳しい競争に晒され、ノルマとの戦いをしているんだもん。でも、人を…」
オイダンはウィンカーをつけて車線を変更し、ランプを降りていった。
「分かってくれて、ありがとう。私は誰にも言わないわ。四国の田舎に帰って夫と静かに暮らすから、アナタも安心して」
オイダンは何も言わなかった。ちょうどロードサイドのファミレスが見えたところで高島は停まってほしいとの意思表示をした。
「あのファミレスの前で降ろしてくださる。少しコーヒーか何かを飲んでからホテルに戻るわ」
「分かった」
オイダンは駐車場には入らず、入り口の扉に続くスペースの前に車を停め、反対側に回って高島が降りられるよう扉を開けた。
「ありがとう。今夜はごめんなさい。明日以降どこかで会っても普通にご挨拶できると思うけど、今夜はもう一緒にいるのは…」
「ああ、分かっている」
高島が降りやすいようオイダンは手を伸ばしてあげたが、高島はその手を取らず、自分で車から出た。
まっすぐ立ったかと思ったら、高島はよろけて、路肩まで数歩あるいたところで胃の内容物を戻してしまった。ファミレスの前で、見ている人もたくさんいる前で、美人が道路に吐いていたのだ。
「おいおい、あのおっさん運転がよっぽど下手なんだろうな」
「いい車、いい女、運転の下手な男」
「今夜のエッチはなくなったな、残念!」
「どうせホステスかパパ活かなんかだろう」
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ファミレスの客は勝手にいろいろ想像していたことだろう。どう思おうと客の勝手だが、高島にとって一番大事だったのは多数の証人のいる前でオイダンと別れたことを証言してくれる人が複数できたことだった。
もう一つ言えば入り口の監視カメラにも映像が残っていることだった。これで高島都はヴィンセント・オイダンと別れたことが証明されるし、映像には日付も時間も残るし、場所も特定できる。
「迷惑をかけて、ごめんなさい」
「大丈夫か?」
「ええ、そこのファミレスで少し休んでいくわ」
「ああ、そうしたらいい」
「誤解しないで欲しいの。私は本当に普通の女性なの。たまたまニューヨークに留学したことがあるだけで、学歴も普通、結婚も普通、夫も普通の人だし、何にも特別なことはないの。あなたのことを他人に話すことはないから、私のことは忘れて」
「ああ、分かった」
「ネイサンのことはうまく断って、もう関わらないようにするわ、本当よ」
「君が僕のことを話さないのなら、僕は干渉しないよ」
「彼とも別れた方がいいでしょ?あのホテルにももう泊まらないようにするわ。別のところにするわ、次の出張から」
これで高島はオイダンが何かをしたということを知っているだけの普通の主婦になった、はず。オイダンが追ってきて殺すほどの価値があるとは思えない一市民だ。彼のことを警察に言わない限り、命は取られないと思いたい、恐怖に怯える小市民だ。
オイダンは高島の部屋番号は分かっているから、今夜は自分の部屋に戻らない方がいいかもしれないが、何も言わない限りは問題はない。
自分と夫の命が大事な小市民の女性。いざとなったら旦那を殺すと脅せば何でもするだろう。しかし、今は必要ないから、このファミレスに置いていける。
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