月と六文銭・第二十一章(03)
アムネシアの記憶
記憶とは過去の経験や取り入れた情報を一度脳内の貯蔵庫に保管し、のちにそれを思い出す機能のこと。
武田は複雑かつ高度な計算を頭の中だけで計算できた。スーパーコンピューター並みの計算力ではあったが、それを実現するにはある程度の犠牲を伴っていた。
<前回までのあらすじ>
武田が特殊な記憶方法、思考方法を取っていることを恋人であるのぞみに説明をした。
のぞみは、武田の脳の状態が普通ではないことを知って、過剰かもしれない心配をし始めていた。しかも、職場にいることを忘れてしまったかのような態度となっていた。
03
武田は狙撃の弾道計算をするために脳が特化していることは言えなかった。だから、膨大な経済データを用いたシミュレーションのためと説明していた。一部の経済シミュレーションは同じ方法でやっていたのもの事実だ。
のぞみは状況が飲み込めたのか、徐々に理解が進んだのか、一呼吸おいてから話し始めた。
「ごめんなさい。
私達とは何か違うとは思っていたけど、そういうことだったの?」
「コンピューターで言う、RAMとHDDの関係で、メモリが不足したらハードディスクの一部を計算のために使っているんだろうね。
だから逆に何か抜けてしまう」
「それって生活上問題はないの?
車の運転をする時とか、機械類を操作する時とか」
「逆に助かっていると思う。
他の車の動きを瞬時に予測して事故防止に役立てているから」
「人は?
人というか、私のこととか、記憶に残らないとか、すぐに消去されちゃうとか?」
「今のところ、そんなことが一切ないのは君も知っての通りだよ。
なんならこれまでのベッドの中のことを全部順番に言おうか?」
「いや、そういうことじゃなくて。
というか、それはやめて。
私、多分、同年代の女の子に比べてかなり恥ずかしいことをしていると思うから」
「そんなことはないよ」
「そうかなぁ、結構恥ずかしいことしているし、お母さんにも相談できないことが増えている気がするんだけど」
「それは二人の間のことで、他人に相談することじゃないよね?」
「でも、何が普通なのか、分からなくなっている時もあるの。
哲也さんが求めるから私が応じていることもあるし」
「ア〇ルとか?」
「してないでしょ!
それに、これからも絶対しません!
確かに違った感じの気持ち良さとか、異次元の気持ち良さとか、いろいろ経験談は聞くけど、私は嫌よ」
「君の嫌がることはしないことをポリシーにしているから、しないよ」
「ありがとう。
心配が一つ減ったわ。
でも、それをしてくれる子が登場したら心配がまた一つ増えるわ」
のぞみは口をへの字に曲げ、大いに不満であることを顔に出した。
「話を戻すと、健康上の問題はないの?
体のほかの部分に影響が出るとか?」
「ないと思う」
「思うじゃなくて、本当に大丈夫なの?
私、本気で心配しているんだから!」
「ああ、大丈夫だと思う。
時々ペンや消しゴムを忘れる程度だから」
「あ、それで、すぐに議事録を書いているのね!
自分自身が忘れないように。
そして、記憶容量を解放して、次の計算をしやすいように」
「コンピューターに喩えるとそういう感じなのだろうね」
「長期記憶は本当に問題ないのよね?」
「君のことは忘れないよ」
「他の女性のことはすっかり忘れてくれるといいな」
「いませんよ」
「どうだか。
している時、誰かと比べられている気がするんだけど…」
「そんなことはありません!
のぞみさんは前の彼と僕を比べたりしますか?」
「しません!
哲也さんの足下にも及ばない拙い行為だったし、あの時どうしてそれを気持ちいいと思えたのか今では全く分からないわ。
体も気持ちも本当にお子ちゃまだったんだと思う」
「まぁ、職場なので、この話はこれくらいにして。
昨日摩耶さんに聞かれていたみたいだけど、大丈夫かな?」
「それをここで聞くの?」
のぞみは再度口をへの字にして、武田に話の内容に不満があることを示した。
「ちょっと恥ずかしいけど、多分来週まで顔を合わせることはないから、それまでに平静を取り戻せると思うわ」
「僕も君と来週まで会えないけど」
「え、そうなの?」
「夜また連絡しよう」
「うん!」
武田はチラッと卓上時計に目を移した。
「ランチの約束があるの、ですか?」
「ああ、ゴールドウィン・マックスのモズレー部長と」
「あの、いかにも米国人的態度の人ね」
「そうね、いかにも『アメリカ・イズ・グレイト』的な米国人で、日本では、いやアジア全般では好きではない人が多いけど、仕事はさすがだし、持ってくる情報は貴重だから」
「そうなんですよね。
やはり情報の量と質がモノを言う業界だから」
「だから、彼はあの態度でもやっていられるわけさ」
「それでは、私は戻って、土屋さんと議事録作成を再開します」
「よろしくお願いします」
「はい、承知しました」
のぞみが武田の部屋を出るとすぐに武田はジャケットの袖に腕を通しながら出ていった。
<大事な情報源か。確かにコンピューター並みにシミュレーションを頭の中だけで計算しているあの人は、脳の発達が人と違ってもおかしくはないけど、それは人格や生活に影響していないといいんだけど…>
「モズレー部長ね」
土屋が、武田の動きを目で追うのぞみに話し掛けた。
「そうみたい、貴重な情報源なんだそうです」
「ウチらは、知っていてナンボ、知らなくて損をしたらアホだからね」
「ねぇ、武田部長ってどうやってシミュレーションをしているんだろう?
頭の中だけでやっているのかしら?」
「結構PCとにらめっこしているところを見かけるよ。
32階の社内カフェでPC2台と例の電卓で紙にいろいろ書いている」
「あの電卓ね、ビジネススクール必須といつも言っている」
「そう、アレ。
アタシも使うようにしているけど、RPN方式って日本人に合っていて便利よ」
「そうなの?
形が独特で、アタシたちみたいな若い人が使っていたら、生意気に映らないかな?」
「アタシ達だって年齢に関係なく、プロなんだから、きっちり結果を出してナンボ。
電卓くらいで何か言われても、気にしていられないよ」
「それもそうね」
土屋が手に持っていたのは武田も使っているヒューレット・パッカード社製の金融電卓hp-12cだった。通常計算モードにも設定できるバージョンもあるが、基本はRPN方式で計算を進める。
RPNはReverse Polish Notation=逆ポーランド記法と呼ばれる演算の記述方式。「2と3を足す」という演算を、一般的な数式の表記では「2+3」となる。ところが、RPNだと加算を表す演算子「+」を、被演算子である2と3の後に置いて、「23+」となる。RPNによる表現は日本語の語順に近い。日本人なら頭の中で、「2と3を足す」とそのままの順序で入力できる。
「日本人って本当は金融に強く、和算が発達したり、堂島米会所での先物の発達みたいに最先端を行ってたのに、いつの間にか欧米に抜かれたのよね」
「堂島の話、面白かったね。
シカゴ先物取引所に大阪の先物のことがプレートになっているのよね」
「そう、大阪の人の絶対損しない精神はスゴイし、どうしても幕府の役人が先物とか証拠金取引が理解できなくて、一方的に禁止しようとしたり、何か、今の役人の不勉強に通じるものがあるよね」
「また、良子さんそういうことを言う!」
「卒論のテーマだったんだから、熱く語っても許してよ」
「そうですね、ハハハハハ」
土屋ものぞみもちょっと声を出して笑った。何だろうと思って渡辺が振り向いたが、土屋が手に持っていたhp-12cを振ってみせたところ、何に納得したのか、ウンと頷いて渡辺は自分の画面に視線を戻した。
「渡辺さんもすっかり武田部長に心酔しているみたいね」
のぞみは渡辺の行動を微笑ましいと思っていた。
「だって、見ちゃったんでしょ、スーパーモデル?」
土屋は武田とスーパーモデルの件を、また取り上げた。
「本人はそう言っていたけど」
「あたし達の世界は結果を出してナンボ。
噂先行ではなく、事実を突きつけなきゃ何も言えないし、何も証明できない。
運用力に自信があるなら、結果を数字で示すしかないし、英語ができて、外人にもてるならその相手を見せてご覧よ、となるし、武田部長は本当にスーパーモデルと出掛けていたんだから、有言実行したわけよね」
「それはそうだけど…」
ここまでくるとのぞみの心中は複雑で、本当は「私が武田部長と付き合っているの!」と言いたい衝動に駆られるのだった。みんなに自分たちが付き合っているのを宣言出来たらどんなに気持ちが楽になることか。