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羽生書店(04)

 武田がC県の大動脈・S線にある駅に田口から呼び出されたのは9月のある木曜日だった。
 ここから米中央情報局工作員・田口静香たぐち・しずかの冒険『六闘三略りくとうさんりゃく』より、『羽生はにゅう書店』の巻が始まった。


「つまり、静香がリウを…」

 田口は武田が気に入って定期的に逢っている留学生の刘=劉少藩リウ・ションファンが中国軍の手先として活動しているなら、処置を取るというのだ。

「私が彼女が理由で倒れたり、囚われたりしたら、哲也さんはどうしますか?
 愛してやまない刘を見逃しますか?
 私を見捨てますか?
 私は哲也さんにとって、それしか価値のない存在ですか?」
「そんなわけないでしょ!」
「ならば、以前からお願いしているように、刘との関係は慎重にお願いします。
 最近は指定の部屋ではなく、彼女の部屋で過ごしているようで、そこで何かあっても、迅速な対応が難しいのは分かりますよね?
 自己責任と言いたいところですが、私にはあなたを守る役割がありますので…」

 武田は田口が指定したホテルの部屋で刘と合うようにしていた、初めの頃は。その部屋はターゲットをがんじがらめにするための監視カメラとマイクが仕掛けてあって、組織が盗撮・盗聴をしていた。その部屋に留学生・刘を連れ込み、肉体関係を持っていたが、すべて、録画・録音されいてた。
 その映像を田口は毎回確認していた。
 しかし、刘の部屋、実際には武田が契約している部屋、には盗撮・盗聴する設備は設置されていなくて、田口が監視できない状態になっていた。こうした部屋のメリットは、組織の監視がなく、本来の気持ちで武田が刘と接することができる点だった。デメリットは直接監視しているわけではないので、刘と武田の間でトラブルがあった場合、誰も救いに行けない点だった。

「分かった。
 気を付ける」
「愛してやまない武田哲也に何かあったら、田口静香は抜け殻のようになってしまうかもしれないので、お願いしますね」

 田口は武田の腕をギュッと絞めた。彼の腕の血流が止まりそうだった。武田は指先が冷たくなり始めたのを感じ、田口を見つめた。

「電車が来ます。
 久保田と同じ車両に乗りましょ」

 武田は田口が例の簪を髪に挿していることに、今気が付いた。

<いつの間に?それを使う気なのか、電車の中で?>

「久保田は必ず、あの自販機で600mlの水を購入します。
 私もそうします」

 田口はさりげなく久保田と呼ばれる中年男性の後ろに並び、ホームにある自販機で『天然水600』を購入した。
 列車が来たので、整列し、田口は武田の手を引いて、久保田の後ろに並んだ。扉が開き、乗客が降り始めた時、久保田は一歩下がった。その瞬間、田口は手に持っているペットボトルと久保田のバックパックにあったペットボトルをすり替えた。
 武田は凄い技術だと感心した。普段から見ている、観察している、行動を分かっているのに加え、バックパックがすり替えやすい行動かなども調べてあったのだろう。こういうところは完璧だった。
 しかし、ここで疑問が湧いた。自販機で買ったペットボトルを交換して何になるのか?何か注入したりする時間はなかったし、武田の前でも何もしていないように見えた。

「さて、久保田は次の駅までに水を開け、それを飲み、その次の駅で腹痛で電車を降り、トイレに行きます」
「でも、静香の水では何も起こらないよね?」
「哲也さんは手品が好きですか?」
「ああ、よくマジックショーとか見る方だと思う」
「タネを見破ることは?」
「だめだねぇ、すっかり見入ってしまって、こっちの手を見てと言われるとそっちを必ず見て、何かをやっている方の手を見逃してしまいます」
「タネあかしをすると、私がすり替えたボトルは私が自販機で買ったものではないです。
 自販機で買ったのは駅のホームの監視カメラにアリバイを残す為です」

 そう話しているうちに久保田はペットボトルを開け、ゴクゴク飲んで蓋を閉めた。田口は自分のバッグの口を広げ、もう一本同じ水のペットボトルがあるのを武田に見せた。というか、久保田が小さいものを購入する可能性がないわけではなかったので、用意周到に500ミリリットル、つまりもう一つ小さいサイズのものも用意していた。

<そうか、購入する物は分かっているから、既に購入しておいて薬品を入れた物を用意し、まず自分が購入した物と交換し、次にそれとターゲットが持っているものとすり替えるのだ。疑われても、監視カメラにはおなじ自販機から同じ商品を購入した女性が映っているので、何らおかしいことがない状況が作り出されるだけだ>

「手品か」
「手順と結果は同じです。
 久保田がどうなったか一応確認してから次に私たちは飯田橋に向かいます」
「そこでターゲットの相手を確認するわけか」
「そう、そして、仕留めます。
 多分格闘になると思いますので、鞄の中のパソコン、なるべく鞄の内側の外に近い方に移しておいた方がいいです。
 ナイフに対する防御になりますし、銃弾に対する防弾板になります」
「やはり中国はそういう武器、火力で来るのか?」
「いえ、人間兵器です。
 極秘情報ですが、潜入している工作員の一人が、教練時代、教官を殺して、天井から吊るした筋金入りの格闘のプロだそうです」
「そんなこと、有り得るの?
 教官って、上官でしょ、教練期間中は?
 上官に反抗するなんて軍隊では許されないことでしょ?」
「レイプされた復讐とされているようです。
 中国軍も女性兵をレイプする教官がいるのではさすがに不名誉だから追及できなかったのか、親戚に力のある幹部がいて事件自体をもみ消したのか、すごいことですよね」
「おそろしあ…」
「駄洒落ですか?」
「そんな過激な女性兵がいるのが信じられないが…」
「特殊部隊・明華ミンファのエリート兵・陳紗佐チェン・シャーシャーという工作員です。もちろん偽名でしょうけど、これからお会いすることになりますよ」
「有給休暇を取る日を間違えたとしか言えないよ、今日」
「あら、素敵なデートになっているし、米中の工作員の力量の違いを見学できるなんて、最高のショーじゃないですか?」
「…」
「あら、私が負けるとでも?」

<静香は勝てるからそう言ってるんだよね?勝つつもりだよね?>

「ほら、久保田が降りて行きます」

 田口が仕組んだ通り、久保田は青い顔をして、電車を降りて行った。そのまま駅のトイレに行って、待ち構えている工作員に拘束され、セイフハウスに連行され、尋問されるだろう。
 久保田が得意先に現れなければ、会社は事態の重大さに気がついて、後処理を始めたり、監督当局に届け出をしたりするだろう。つまり、この穴は塞がれたことになる。
 問題はハニトラの相手だ。日本国内で活動している中国のスパイは数百人はいると推測される。中国人であったり、日本人や他の国籍の協力者であったりもするだろう。大義のため、大金のため、のどちらも考えられる。
 以前は上海で日本人商社マンや外交官がハニトラに引っかかっており、現地の男女との交際について注意喚起されても、かなり巧みに近づいてくることが知られている。それが日本国内となると「まさか、日本内で?」とガードが緩くなっているところに、留学生、しかも男女ともであったり、中国人でないケースも加わるから対処は難しい。

 先ほど武田は田口からパパ活女子の刘がその一味のような示唆を受け、正直焦った。武田が何らかの国家機密に近づける、或いは日本政府の政策立案者に近い者ならば情報提供者に仕立てる価値はあるが、投資会社の部長ではそういう価値は低い。
 強いて言えば、以前は防衛産業を担当していたことがあり、防衛庁・省や装備庁などに出入りしていた過去があった。しかし、今はメインの担当分野ではないので、果たして情報価値があるのか。

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八反満
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