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天使と悪魔・聖アナスタシア学園(02)

第二章
 ~兄と弟~

 人間とは愚かなものだな。自分の欲望を満たす為なら悪魔に魂を売ると平気で言う。

 しかも、悪魔との取引をするのに、本当に悪魔と取引をしているのかさえ確認しないとは愚かとしか言いようがない。

 兄ならば、先ほどのような求めに応じることはしなかっただろう。地獄の番人ではあるものの、本当の悪魔ではない兄ならば笑って断っただろう。或いは姿を見せず、若き乙女たちをがっかりさせ、その歪んだ望みを実現させなかっただろう。

 しかし、俺は兄貴とは違う。人間の欲望の限界を知りたい。人間同士の醜い欲望の発露は眺めていて楽しい。

 教会外で降霊を行うのが、東洋の乙女たちというのが意外だし、あまりにも人間らしい欲望を満たしたいところが微笑ましいとすら思える。他人を貶めるとか、欺くという罪を犯そうともしない。これくらいの悪戯ならば父上も細かくは言うまい。

 それよりもルキフェル兄はどこに行ったのだろう?地獄の門はきちんと閉じられていた。錠前には彼の血で封印がされていた。この封印がある限り、誰も出られない。

 しかし、この封印は比較的新しい。つまり、最近この扉が開けられ、そして、兄貴が改めて封印をしたということだ。俺がわざと門が開くよう鍵を緩めておいたことに気が付いて、締め直したことは確かだが、緩んだ隙に出て行った者がいただろうか。

 ま、それは門番をしていた兄貴の責任だ。父上もそう判断するだろう。俺はどうなっていくか、少し地上を眺めていよう。

 双子の大天使・ミカエルとルキフェルの弟・アメヌルタディドは知略の神であった。全天の神である父親の寵愛を受けたいがためにすぐ上の兄を貶め、地獄の門番へと追いやった。
 アメヌルタディドは知略の神とされていたが、それがメソポタミアでは戦闘の神エヌルタと天候の神アダドへと別れ、後世に伝わっている。そして、キリスト教ではやがては存在すら忘れられていった。
 今の世界は陰と陽、裏と表、光と影、善と悪、つまり二元論で出来上がっているのだ。良き者をミカエルとするなら、悪しき者がルキフェルであり、そのため、ルキフェルは地上の世界では悪魔やサタン、誘惑や堕落を表すとされるようになった。

 聖アナスタシア学園のマサミ、ユリ、スミレそしてサクラは降霊の際にルキフェルにお願いをしていたつもりだったが、弟のアメヌルタディドが兄のふりをして降霊していたことなど全く知らなかった。

 ルキフェルならば彼女らの願いを一笑に付すか、実害のない程度に聞いてやっただろう。しかし、アメヌルタディドは退屈な地獄の門番の務めに飽き飽きしていたので、地上つまり人間界を混乱させて遊んでやろうと思い、乙女たちの願いの裏で地上に本当の悪魔を幾つか送り込んでみたのだ。
 そして、その悪魔たちが降霊先の学園を恐怖と混乱に満ちた地獄へと変えていくのを見物するつもりだったのだ。

 手始めに私、というか本当はルキフェル兄、を呼び出して欲望を満たそうとしている若き女性たちの通う学園を混乱に陥れてやろう。降霊の中心となっているあの4人を苦しめよう。最終的には彼女たちが主張する永遠の友情なるものを壊して、どう反応するか見てやろう。

 さて、どうやってそれをやっていこうか。

 アメヌルタディドは友情が壊れるような要素を振りまいていこうと幾つかシナリオを考えた。

 先週、自分の降臨を求めた娘、セイラ・へレス・ユリカイアは、あまりにもストレートに女としての欲求を満たそうとしていて、呆れるやら関心するやら。
 まぁ、人間の心の進化はこの程度なのだろう。千年経とうが、二千年も経とうが、あまり変わらないものなのだな。あのドイツ人は誇大妄想家だったが、心の底には統一された欧州ならば民族間の紛争がなくなるとの願いが少しはあったものの、気に入らない民族を順に浄化して行こうとしたのは大失敗だったな。
 結局、特定の民族が問題ではなく、国家がどのような主義を掲げるかが問題だったのだが、それに世界が気が付いたのは世界戦争が終了した瞬間だったのは皮肉だな。
 自分としては人間どもの物欲の方が興味深い。この二千年の変化よりも、この二十年くらいのテクノロジーの進み具合はすさまじく、それに合わせて人間どもの欲しがるものも随分と変わった。
 長らくは土地やヒツジ、金貨や王冠だったのが、今は掌に入るような小さな黒や銀色の箱、携帯電話というらしい、だったり、動物の革でできた荷物入れ、こっちはハンドバッグという、だったりする。大して価値のないものに価値を付けることを思いついた人間は、悪魔よりも悪賢いと言いたい。

 そうそう、本来の降霊とは、神に判断を伺いたい時とか、アドバイスをもらいたい時、何か人間界に変化を与えたいから神の許可を得たい時に、神に直接対話する機会を提供するものだった。
 だから教会の図書室には降霊術の本が必ず収蔵されているし、後ろめたいものではなかったのだが、自分たちの個人的な望みを叶えたいために行うようになってから、秘密めいた儀式に変わっていった。そして、個人的な望みを叶えてもらう代わりに何か代償を払うようになってしまった。
 それは私が求めたものではない。これこれを提供するから、こうした望みを叶えて欲しいという構図になっていったのだ。
 私が欲しいものなど何もない。人間どもは命だの時間だのを差し出すというが、そのようなものは別に欲しくもない。もらってどうするんだ?考えてみたら無意味であることに気が付くだろう?永遠の命を持っている神である私が人間から数年単位で命を貰っても意味はない。
 だから私はその人間の覚悟を見るために「自分の命を差し出す覚悟はあるのか?」と問うだけだ。

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八反満
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