月と六文銭・第十五章(8)
動くものを狙撃するのは難しい。スピードもあるが、動きが予測できないことも多い。武田の計算能力で動く物体が百分の一秒後、十分の一秒後、一秒後、二秒後、三秒後、五秒後にどこにいるのかが予測できるからこそ、正確に狙撃ができるのだ。
この特殊な能力が発揮されるのはターゲットが車で移動していて、事故に見せかけて無効化する時だ。
アサインメントその3:赤いベントレー
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>ターゲットの車:ベントレー・コンチネンタル
英国、ベントレー社製。2003年に発売された4人乗り2ドアクーペ。エンジンはフォルクスワーゲン製6000ccのW12+ツィンターボで、最高出力560ps/6100rpm、トルクは66.3kgfm/1500rpm。4輪駆動。
1990年代までベントレーとロールスロイス(RR)は姉妹車とされ、RRは運転手付き=ショーファー・ドリブン、ベントレーは自分で運転する車と棲み分けされてきた。
その後、ベントレーはフォルクスワーゲンに売却され、その一部門となっているが、RRはBMWに売却された。
ピローン♪(メールが届く音)
「ん?個別売込案件か?」
"今週の新商品・新サービス紹介"のメールが届くのは週一回、土曜の午前3時だ。
しかし、今届いたメールは零時に届いたものだ。つまり"個別売込案件"だ。
深夜零時に届くメールなんて碌なものではない。内容は次の3つしか考えられない。
1つ目、正常な判断を下す時間のないまま、指定された的を中てる案件。
2つ目、大国の身勝手な思惑に基づいて、指定された的を中てる案件。
そして、3つ目、組織防衛のため、指定された的を中てる案件。
基本的には比較的早急に対応する必要がある案件であることは確かだが、3つの内、どれだ?いや、3つとも該当するのか?
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今回の商品は、有明ふ頭からの東京湾周遊クルーズとディナーショーのシングルチケット、定価50,000円、早割で20%オフ。
有明辺りで夜の狙撃を依頼する内容だった。詳細は追って伝えられるが、通常と違うのは、入札でも希望者募集でもなく、武田を直接指定してきた点だ。報酬は50,000米ドル、早急に対応するなら、20%増額するとも。
何ゆえ、これほど早急に処理したいのだ?
武田の元に送られてきたドスィエには、今回のターゲット、米国人マーク・ウェスティン元米陸軍大尉の軍歴が書かれていた。
興味深かったのは、彼が名前を変えて、大手ファーマ会社の営業マンとして、日本の厚労省との交渉を担当していたことだ。
その過程で政治家、その秘書、厚労省の役人、ライバルファーマの社員などを殺害していた。しかし、直接手を下していないようだ。その部分の解明は他の工作員に任せるしかない。
武田はターゲットが車で首都高を周回していた時に狙撃することを計画した。しかし、毎回、直接関係のない女性を同乗させていてた。"シングルチケット"と書かれているため、ターゲット1人だけを狙い、他の犠牲を出すことが許されない。同乗者がいない時を狙わないといけない。
しかし、過去のデータをみると、2か月に1回来日して、1週間ほど滞在し、韓国ソウルに1週間ほどいてから日本の戻ってきて、2日か3日ほどで米国に戻ることは分かっている。
そして、日本にいる時、彼が一人でドライブに行くことはなかった。
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完璧も大事だが早期に解決することも大事だ。手をこまねいていると思われるのは癪だが、同乗者がいない時を探せないでいた。犠牲者が出ることに本部はどう思うのか、照会しよう。
そう思った矢先、"チラシ"が入った。記載されている電話番号とFAX番号を組み合させて、ピックアップ地点の経緯を計算し、注文番号から連絡先を割り出して、条件変更を打診した。
返信はすぐに来た。
『✕時✕分○○地点でのピックアップに備えるよう』
武田は装備の入ったカバンを持ち、タクシーで南に向かい、ターミナル駅の北側で降りて南北通路を抜けて南口から別のタクシーに乗り、さらに南に向かい、東京湾に面した病院に着いた。
エレベーターで最上階に向かい、階段を駆け上がって屋上に出たところ、ヘリコプターが今にも飛び立てる状態で待っていた。
武田が近づくとフライトスーツを着た乗員が降りてきて、武田に聞いた。
「Old, New, Borrowed(古い、新しい、借りた物)」
「Blue, and a silver six Pence in her shoe(青と靴には銀の六ペンス)」
「Welcome!(ようこそ!)」
武田は助けられて乗り込み、ベルトを締め、ベッドセットをつけた。
「急ですみません。アセットがターゲットに拉致されました。車で首都高を移動中ですが、それを止めて欲しい。具体的には車を辰巳ジャンクションで大破させ、移動が不可能になるようにしてほしい。後はアセットが対応する」
「アセットはこの案件を担当している者か?」
「はい」
「アセットはクラッシュに耐えらえるのか?」
「それは問題ない。一応、心の準備はできている。我々も地上で対応の準備をしている。とにかく辰巳でターゲットの車を止めてくれ」
「分かった。狙撃地点に連れてってくれ」
「向かっています。数分で到着するので、狙撃の準備には十分時間が取れると思います」
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ヘリは加速し、芝浦から有明を越え、東雲の病院の屋上に降り立った。
疾走する赤いベントレー・コンチネンタルGTは全輪駆動、W型という変わったエンジン形式の大型クーペだ。500馬力以上のパワーを4輪全部に伝えて、路面を蹴って、障害物競走をするように他の車の間を縫って走った。
今回のアサインメントはこの赤いベントレーを停めることだった。ドライバーは元軍人で、バーで知り合ったビジネスウーマンに扮したアセットを拉致して逃走していた。
このアセットは数か月内定を続けていたが、互いの正体が判明して、ホテルの部屋でターゲットと格闘し、気を失ったために車に乗せられていた。ターゲットが最終的にアセットを殺して山中に捨てることを考えているのかは不明だが、千葉方面に移動する可能性が高かった。
危機を察した組織の要員が追跡したが、箱崎から首都高9号線に入り、湾岸線を目指していた。湾岸線にぶつかったところで、左に曲がれば千葉方面、右なら品川、横浜方面に向かうことになる。
狙撃銃のセットアップは完了していた。武田は振り返り、距離測定用に使っているスコープには大型の赤いクーペがこちらに向かっているのが映っていた。武田は腹ばいになり、セットアップしたスコープを覗き込んだ。剥き出しのセメントの壁と黄色と黒の縞が見えた。
この位置からの狙撃ならターゲットが左右どちらに向かったとしても仕留められる。組織の予想は左に曲がって千葉方面に移動するというもの。
ターゲットの車が近づいてきた。武田は頭の中ですべての条件を計算して、カウントダウンを始めた。
「天道、人間道、修羅道、鬼畜道、餓鬼道、地獄道」
言い終わると同時に人差指に力が入り、バシュッという音とともに肩に衝撃を受け、銃身の先端からは僅かな煙が出た。