月と六文銭・第二十一章(04)
アムネシアの記憶
記憶とは過去の経験や取り入れた情報を一度脳内の貯蔵庫に保管し、のちにそれを思い出す機能のこと。
武田は複雑かつ高度な計算を頭の中だけで計算できた。スーパーコンピューター並みの計算力ではあったが、それを実現するにはある程度の犠牲を伴っていた。
<前回までのあらすじ>
武田が特殊な記憶方法、思考方法を取っていることを恋人である三枝のぞみに説明をした。
のぞみは武田のことが心配でいろいろ話したが、武田が外出することもあり、一旦落ち着いて自席に戻った。
周囲は自分たちが交際していることを知らないため、のぞみにしてみたら気になる発言が出ることが辛かった。
04
のぞみの1年先輩、土屋良子は、渡辺弘明に見せられたスーパーモデルのビアトリス・クルシコフの他を圧倒するスタイルを思い出しながら話出した。
渡辺は外部研修後の私的飲み会で武田がビアトリスと一緒にいるところをAGIの同僚の鈴木及び他の資産運用会社のアナリストたちと目撃したのだが、その話は広く社内に共有されていた。
「アタシもそのモデルの写真見たけど、部長より10センチ以上も背が高いのよ。
そろそろ日本女性も身長で男性を選ぶのをやめないと、本当にいい物件を逃すよね」
「良子さんったら!」
「アタシたちが物件というのはおこがましいかな。
特に武田部長は上司だもんね」
「そうよ」
「しかし、アタシ達なんて子供か足手まといくらいにしか扱われてないよね?」
「そんなことないと思うよ」
「まぁ、部長は本当のジェントルマンだからそんな素振りは見せないけど、議事録の件はどう?
まるでアタシが無能だと言わんばかりに早過ぎるタイミングで議事録を送って来るし、アタシが作った議事録を見て、自分のと事実の突合せをしろというのよ。
つまり私が書いていることが間違っているってことでしょ?」
「そうじゃなくて、皆で確認した事実がなんなのかが大事なのと、それがないと安心して運用に打ち込めないからだと思うわ」
「すごい、のぞみは武田部長とそんな話をさっきしていたの?」
「え、まぁ。
良子さんにはなんて?」
「彼に対する批判を『いい意見だ』と言われた」
「部長批判が?」
土屋はウンと頷いた。
「激怒されなかったの?」
「激怒していたと思う。
そりゃあ、たかが6年目の、稼いでもせいぜい5千万とか1億のペイペイと大台の運用部長とでは」
「大台?」
「知らなかったの?
武田部長、先々月、百億円に乗せたらしいよ、運用益」
「うそ!」
「本当らしい。
うちじゃあ、社長よりも稼いでいるマネージャーはこれで二人ね」
「ロン・ショーの松本部長と武田部長か。
うちは天下り社長が貰い過ぎよね、運用益出していないのに」
「営業は社長の管轄で、大口取引先を繋ぎ止めるのが社長の仕事らしいよ」
「週3回ゴルフに行くのが仕事なのかなぁ?」
「メチャ大事な仕事だよ、親会社の落下傘組によると」
「いいよね、お給料たくさんもらって、あまり仕事しないで、ゴルフや宴会、接待は落下傘組の守備範囲で」
「ぼやかない、ぼやかない。
私達だって大学の同年代に比べたらたくさんもらっているんだから」
「そうだけど、それなりの努力もしていると言えない?
資格試験だって毎年受けて、合格しているし、運用成績悪いとフロントを外されるし」
「競争社会はどこも一緒だけど、アタシ達は安全圏にいるのよ、まだ。
アタシ達が損を出しても、武田部長の責任になるだけだから。
つまり、アタシ達は守られているってわけ」
「そうよね」
「そうよ!
のぞみが今のファンドで5パー(5パーセント)のマイナス出してみー?
武田部長が株主生保に頭を下げに行かなくちゃいけないし、自分のファンドを一部売却しないといけなくなるかもしれないのよ」
「武田部長はいつも損な役回りをしていることは知っていたけど」
「まぁ、武田部長をこころよく思っていないプロパーが多いからね」
のぞみは悲しかった。あんなに会社のために頑張っている哲也さんがプロパーの尻拭いをいつもさせられていることを自分だけでなく、若手の土屋良子も知っていることだった。それなのに会社はよくなるどころか、ますます哲也さんとロング・ショート運用の松本大樹部長に頼るばかりであまり仕事ができない社員は定年までいられる仕組みとなっていた。
親会社から子会社に出向という形の本体のリストラを実施した際に、定年までの雇用を保障した密約が取り交され、運用成績が低くても、営業成績が振るわなくても、会社にはずっといられることになっていたのだ。競争が根本の資産運用会社では有り得ないほどおかしな制度だった。武田は入社してからこの実態を知り、呆れたが、自分自身の給与は出来高で払われる仕組みに変えさせていた。
武田は部屋から顔を出し、こちらを向いたので、のぞみも土屋も聞かれたかと思い、一瞬焦っていた。
「副田さん、ちょっといいですか?」
「ちょっと待ってくらさ~い!」
副田はPCの画面から顔を上げないまま武田に返事をした。そんな態度は副田さんしか許されないだろうとのぞみも土屋も同時に思った。
武田は部屋の中に戻り、どこかに電話を掛けた。
その間に副田は入力を終え、若干急ぎ足で、武田の部屋の前まで行っていた。
「すいません、例の損保データ、送付期限が2時だったんで」
「そうでしたね。
ごめんなさい」
武田は自分の部屋の前で副田と合流し、話しながら2階上のカフェスペースへと向かった。
それを見ていた土屋はのぞみの方を向いて疑問を発した。
「武田部長ってなんであんなにいろいろなシナリオを考えられて、計算して、正確な予測を立てられるんだろう?」
「いつも本人が言っているけど、やっぱり官僚って鍛え方が違うのかなぁ?
議事録の作成スピードもそうだけど、金融経済や統計の知識、計算力も凄いよね?」
「数オリ(数学オリンピック)に出たらしいよ」
「聞いた!」
「スーパー文系なアタシには、それがどれくらい凄いか分からないけど、かなりすごいことなのよね?」
「すごいんじゃないの?
オリンピックというからには、国の代表として出場したんでしょ?」
「そうでしょうね。
アタシ達には絶対無理な話よね」
土屋の机の電話が鳴った。内線の音だったが、4桁の個人デスクからの電話ではなかった。3桁だから会議室からのはずだ。
「株式、土屋です」
「あ、土屋さん、武田です。
手が離せるようならカフェエリアの6番に来てもらえますか?」
「はい、行けます。
すぐに行きます」
土屋はフロアの中央にある内部階段を使わず、近くの非常階段を使って2階分を駆け上がり、カフェエリアに向かった。
着くと、武田と副田が談笑していた。少なくともそう見えた。
「あぁ、土屋さん、どうぞ」
武田は副田が座っている方の席を示し、副田が「じゃっ、戻ります」と言って席を立った。
「例の件、お願いします」
「了解です!」
副田は土屋が来た道をそのまま辿るように、非常階段に向かった。
「土屋さん、少しの間、業務を外れてもらいたいのですが」
「え、いつ、どうして、ですか?
私の力では武田さんの運用戦略会議に参加するには」
「ウンセンのことではありません。
よくやっていると思います。
以前から気になっているのですが、当社の人事は人事としてはいいのですが、運用会社の人事としては全くレベル不足です」
「はぁ」
「悪口に聞こえると思いますが、どのように受け取ってもかまいません。
しかし、はっきり言って当社の人事が企画した研修ではアナタの力は伸びず、社内のベテランも運用力はあるのですが、教えるのが下手です。
そこで私は外部に研修をお願いしました。
野本証券に株式、債券、不動産、オルタナ、金融、ミクロマクロ、ポートフォリオ理論の各講座をしていただけるよう先方の運用部長にお願いしてきました」
「え」
「大事な人材を磨くのも、上の務めです。
才能があるなら伸ばす。
足りないところを社内で賄えないなら、外部を利用する」
「しかし、私のためにそんな企画を…
先方の条件は何ですか?」
「研修が終わったら君を同社に出向させること」
「え、それでは」
「冗談です」
「はぁ」
「私が冗談を言ってはいけないのですか?」
「いいえ、軽々しく言えることではないと思いまして」
「転職を打診されました」
「部長がですか?」
「はい、君と副田さんと私の三人をワンセットにして、どうか?と」
「うちは外資ではないので、有り得ないですよね?」
「野本(証券)は一昨年メイソン・グリードのアジア・オペレーションを買い取って、三分の一が外資だから、部門ごと投資チームを買うことなど全く抵抗がないし、レベルの高いファンドマネージャーを欲しがっています」
「本気じゃないですよね?
だって、ここは会社のド真ん中ですよ?
転職の話だってだれかに聞こえたら大変なのに、引き抜きの話なら、なおさら」
「土屋さんは意外と堅いね。
じゃあ、三枝さんを口説くか」
「いやぁ、のぞみ、あ、三枝さんを引き抜いたら、株式運用部長に背中から撃たれますよ」
「豆鉄砲で、ですか?」
「指鉄砲がせいぜいですが」
武田はケラケラ笑い、土屋をもう一度説得しにかかった。