月と六文銭・第十四章(65)
工作員・田口静香は厚生労働省での新薬承認にまつわる自殺や怪死事件を追い、時には生保営業社員の高島都に扮し、米大手製薬会社の営業社員・ネイサン・ウェインスタインに迫っていた。
田口はターゲットであるウェインスタインの上司・オイダンに狙いを定め、二人きりになるチャンスを作ろうとしていた。部屋はまずいので、車で出かける機会を作りたかったのだが…。
~ファラデーの揺り籠~(65)
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「マナーのしっかりしたベテランのホステスさんですよね?」
「ベテランかどうかはわからないけど、銀座に行った時に話し相手をしてくれて、英語もかなりできて、それ以来日本出張の度に私のindoor activities(部屋での運動)の相手をしてくれています」
「indoor activitiesね。結構いい汗を流せるんじゃないの、あの人相手だと?」
「達成感と爽快感はあるね」
そうでしょうね。ビデオで観る限り、あの子きっちりイってるもんね。演技なし、遠慮なしで体中がこわばるほど全身に快感が行き渡っているのが画面から伝わってきた。
「お相手も?」
「一応、気持ち良かったと言ってくれるので、それを信じるとすると私同様達成感と爽快感があると思っている」
「達成感ってイったってことよね?」
「ミヤコはストレートですね」
「日本的なオブラートに包んだ言い方をしてもお互いに面白くないでしょ」
ウィンクをした高島の顔が可愛くて、オイダンはニッコリした。
「アタシ、1年以上、セックスレスだったの」
オイダンはチラッと高島の方を見た。どこに話を持っていくつもり?という顔をした。
「去年の誕生日以来、旦那とはしていないし、誰ともしていなかったの。先日、ネイサンとするまでは」
「そうだろうと思ったよ」
「久しぶりで、気持ちよかったわ。でも、やっぱり旦那が最高なのも思い出しちゃって複雑だったわ」
「だから、旦那の元に戻れるんじゃないかな。私もワイフが最高だと思っているから、どんなにスタイルの良い女性と運動しても、ワイフには敵わないよ。だから、軽蔑しないで欲しいのだけど、所詮は運動の相手であって、恋愛対象ではない。金で彼女の時間を買い、私の運動に付き合ってもらっているだけだ」
「今は分かるわ。昔の私だったら、軽蔑したと思うわ。所詮、金で女を買ってるくせに、うまく言いくるめようとする中年男の都合の良い言い訳じゃないの、と」
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「そうだろうね。私も若い頃なら理解できなかったかもしれない。こう見えても若い頃は真面目な軍人で、国のためにジャングルや砂漠で闘ってきたんだ。非常に緊張感の高い部隊にいたのだが、途中でおかしくなり、女性に乱暴を働いたり、民間人を殺傷したりする隊員が出てきたりして、自分が誇り高い軍人でいることが難しいことを理解した。しかし、自分はおかしくなる前に軍人をやめられたと思っている」
「言われなければ、生まれついての営業マン、つまり営業が天職かと思ってしまうわ」
「ははは、ありがとう!営業が上手くいっているってことでいいかな?」
「はい、もう最高の営業マンです!それに運転も大人の余裕を感じさせる丁寧さ!」
オイダンは嬉しそうで、運転も軽やか、スピードを出し過ぎず、遅すぎず、やたらと車線変更するわけでもないし、無理な追越もしない。高島が表現した通り、大人の余裕を感じさせる運転だった。
「ありがとう!このまま安全運転でドライブを続けましょう!ほら、東京タワーが見えてきた!」
オイダンはさっと指で指した。東京タワーは電波塔でテレビや携帯電話の電波を中継する機能を有する。
「きれいよね?!」
「あぁ、化粧直しが終わったからね」
そう、数年後の東京オリンピック開催に向け、外装の塗装を直していたので、一時期上半分が、最近までは下半分が安全ネットに包まれ、ライトアップも中止していたのだ。
「ねぇ、ヴィンセントは私のことを産業スパイと疑っていたって言ったわよね?」
「そうだ、ネイサンに近づいた時」
「何か特定の理由があったの?」
「ミヤコが前の日に彼の行動を観察して、翌日同じ席から前の晩そこに座っていた女性と同じ行動を取ったのを見て、少し警戒したよ。外人をひっかけるなら他にも何人かいたし、コールガールならネイサンよりもお金がありそうな男性に声を掛けるはずなのに、一番お金のなさそうな若い男性に声を掛けるのはお金よりもセックスか情報のどちらかだろうと予想できるから」
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「すごい、そうやって分析するの?なんかスパイとか、監視役みたいな感じね」
「ははは、ごめんなさい。僕も若い頃、ネイサンと同じで軍隊で尋問やら監視任務もやっていたから、観察眼は鋭いかも。生き延びるには周囲の状況を把握しないといけないからね。お陰で交渉事では相手をじっくり観察して、譲歩を引き出したりするのが上手くなった。会社が私を官庁交渉の担当にしているのはルールを覚えるのが早いのと役人の考え方が分かるから交渉を有利に進められるからだと思っている。そういう意味では同じような経験のあるネイサンは、私の部下にはぴったりだし、先行きは私の後任になるだろう」
「へぇ~、そういうことなのね!」
高島はオイダンが軍の情報部にいたことを言わないのが気になっていた。
「ヴィンセントは軍隊の後、すぐに営業マンになったの?よく民間人への転換が難しいっていうじゃない、特に軍隊生活が長いと」
「除隊してから大学に戻って、知人のスタートアップを手伝ったり、ITビジネスを少しやってみたけど上手くいかなくて、製薬会社の営業マンの仕事を見つけた」
「ITってプログラミングのこと?」
「今だとそういう言葉を使うね。当時はもっと泥臭くて、寝ないでどれだけ画面と格闘できるかの体力勝負だったよ。周囲はギーク、今で言うヲタク、にはもっと冷たくてね」
都はオイダンのドスィエを思い出していたが、イリノイ大学でアンドリーセンと世界初のブラウザを作って、ある程度の財産を作ったはずだ。上手くいかなかったどころか、現代版IT長者のハシリじゃないの!ひと財産あるから、もう余生ってことなの?
都にはお金持ちの考え方が良く分からない面があった。お金は人に力を与えるが、傲慢になったりもさせるものだから。
「ヴィンセントはミッドウェスト出身なの?」
「そう、一家はシカゴだよ。英語を聞いて分かったでしょ、すぐに?」
「うん、アタシのはニューヨークのアップステートだけど、アナタとネイサンもミッドウェスタンよね」
「あぁ、彼もイリノイだ」
「比較的キレイなアメリカ英語ってイメージよね」
「昔から変わっていないって言い方をされたりするけど、基本に忠実な英語だと僕は思っている」
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高島は納得して聞いている風に繰り返し頷いた。しかし、ここでオイダンが白状する可能性のある賭けに出た。
「そういえば、アタシ、ネイサンと話すようになる前に、ドイツ人の営業マンと話したわ。今のホテルに泊まっていて、化学薬品系の営業って言ってたけど、ファーマもある意味化学薬品系よね?」
「どんな人だった?」
「ドイツ訛りのない英語を話すドイツ人。背はアナタと同じくらいかな。アタシはスツールに座っていて、立って比べなかったからちょっとわかんないけど。メガネを掛けていて、後ろは刈上げに近い感じの髪型だったかな」
「ふーん、僕らと同じファーマの営業マンだったのかな?厚生労働省ではイギリス系、アメリカ系、フランス系、ドイツ系とロシア系がちょうど同じ分野に申請が集中しているらしく、ある意味しのぎを削っている状況ではあるけどね」
「もし、ヴィンセントのところにスパイしていたとしたらどうするの?そう言うのって警察に言うの?」
「いや、警察に言うとこちらの状況が広く知られてしまうから、軽く警告を発するとか。ファーマの会合で一緒になった人なら大体は知っているから、厚生労働省で会ったら、挨拶もするし、一緒になって役所の対応について愚痴もこぼすし、ライバルだが、対役所では味方というか」
「それ、分かる!アタシが生保の営業をしているって言ったら、なんか新しい抗がん剤とか、終末医療について説明されて」
オイダンの眉が微かに上がって目が鋭くなったことを高島は見逃さなかった。顔には出さなかったが、オイダンは何かを思い出しているようだった。
「彼は名刺を出してきたかい?」
「それがね、彼が出して来たら、私も出さないといけなくなりそうだったから、お互いに出さなかったのよ。正直、私の方が避けちゃったんだね。状況、分かってもらえる?」
高島はアバンチュールで男性と会うのに、多くの個人情報を相手に与えたくないことを考えていたのをオイダンに伝えたかったのだ。