月と六文銭・第十六章(10)
武田は台湾人留学生リュウショウハンと会った午後は金融の授業を担当している女子大の高等部を訪れ、債券の金利について説明した。
授業後、職員が新しいビルのような校舎の他のフロアを案内してくれたが、1キロほど先にあるはずの安政大学小坂講堂が気になっていた。
~充満激情~
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目白聖アナスタシア女子大学の高等部が入っている校舎は建て替えたばかりで、校舎がビルのようになっている点で周囲から若干浮いている感じがした。最上階には学生食堂があり、都内が一望できた。教務課の職員が打合せの後、誇りに思っていることもあり、武田をそこに連れて行って、学生が食べるものですとメニューを見せてくれた。
360度が窓となっているその学生食堂から南西には新宿方面、南東には都心がそれぞれ見えて、晴れて空気が澄んでいれば遠くに富士山も見えると職員が説明してくれた。
その下の階のいくつかは大学院を新設する準備の一環で模様替えをしていて、武田はついでに見せてもらった。
「私はニューヨークにいた時、ニューヨーク大学のビジネススクールで資産運用のクラスを持っていたものですから大学院にも興味があります」
「まだ工事中でして」
頭を掻きながら職員は困った顔をしたものの、結局はその階も案内してくれた。フロアの一部に窓ガラスがもう設置されていて、側壁の壁紙が貼られて完成していたが、ゼミ室は半円状のすり鉢が完成していただけだった。学生用の座席はまだ設置されていなくて、絵画で見るローマの元老院のような状態だった。
「新宿はアチラですか?」
「そうですね。陽が学生の顔に当たらないように、どの教室もほぼ北を向いています」
「さすがに名門校ですね、学生のことを最優先に考えられていて」
「父兄の要望もかなり反映していますし、将来、社会人学級を開設した際にも使用する教室ですので、様々なレベルの方に満足いただけるよう工夫をしています」
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ここから安政大学小坂講堂まではざっと1.1キロメートル、途中に工事中の駅前ビルがあって、ここからの狙撃は不可能と思われるだろう。
一国の大統領を狙撃するなら、一撃必殺でないといけないし、現場から逃げきれないといけないし、自分が疑われないようにしないといけない。
報酬は一生暮らせるだけの金額でないといけないか?一生逃亡生活を続けるなら、そうだろう。
いや、このアサインメントで一生分の報酬を得て、中国人殺人集団から逃げる生活を続けるか?それは嫌だが、たとえ今派遣されている工作員を始末したところで、次から次へと工作員を繰り出されるだろうから、キリがない。
田口静香が提案した通り、ソードフィッシュ作戦で自分のダブルに活躍してもらうことになりそうだ。しかし、そうなると、自分はこれまでの人生を捨てて、場合によってはのぞみのことを諦めないといけない可能性が残る。
小坂講堂がある方向を向いたまま、途中のビルを見極めようとしていると学校職員が話しかけてきた。
「いかがですか?」
「とても充実した施設ですね。今の学生が羨ましいです」
「教育熱心な親御さんが多いですし、比較的富裕層に近い層の娘さんたちが通われますので、設備は年々充実していっています」
「そうでしょう。銀行や商社、生損保の幹部からの寄付が集まると聞いていますので」
歴史のある名門女子大らしくフランス語はフランス人講師が教え、英語はもちろん英国の大学出身の講師が教えていたが、小学生からフランス語と英語を学ぶチャンスがあるなど、公立学校では想像がつかない差がつく教育を提供していた。それを求めて、厳しい入学試験の突破を親子で一緒に取り組むなど、子供が親の努力を実際に目の当たりにして、親への感謝を忘れないといういい面もあるようだ。
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「それでは、先生に来月からご使用いただく、新教室のフロアへと案内します」
「ありがとうございます。しかし、その先生というのは」
「いえ、これは当学で学ぶ者から先生たちへの敬意を忘れてはいけないため徹底していることなのです。講座・講演・授業を担当していただく方は学生から見たら先生です。それは社会に出ても先達を敬うとか、先輩を立てるとか、社会の秩序を維持する上でも必要なことです」
少し時代がかっていないか、とは思ったが、電車に乗っていても、公共の場所でも若者の傍若無人な行動に毎度カチンとしている武田にしてみたら、少しでもそういった教育が残っているのは嬉しかった。
もちろん、今の時代、女性にだけそうした美徳を求めているわけではなく、本当に男子のだらしなさが気になる昨今なのである。人事部に依頼されて採用の面接官を務めることが度々あるが、毎回なんでこんな学生しか来ないのか首を傾げる日々なのだ。
人事部の集め方が悪いのか、まだ資産運用業界の知名度が低いのか、それは分からない。日本の金融業界における位置づけが良くないことも少なからず影響している。これまでは銀行の下部組織や生損保の子会社を起源とする資産運用会社が多く、銀行員や生損保社員が資産運用会社にいる社員を下に見ている歴史が長かったこともあるだろう。
それが海外では逆なのだから当の銀行員や生損保社員が業界の集まりに出席した場合に面食らうのだ。上席が資産運用業界、次席が投資銀行業界、次が商業・信託銀行業界で、最後がリテール銀行業界という序列に耐えられないのだ。仕事の内容の複雑さや求められる専門性を考えたら当然なのだが。日本の駐在員がそうした序列の意味するところを理解しないまま帰国するから、日本の遅れがなかなか是正されないのだ、と武田は思っていた。
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外資での勤務とニューヨークという金融の本場での勤務を通じて、日本の金融業界はなかなか変わらないことを受け入れた武田は、出来高制の契約を会社と結び、顧客資産の増減に応じた歩合で給与支払いを受けることにしたのだ。
会社は当初、株のロング・ショート戦略に注力していて、債券での取引なんて「たかが知れている」と判断して、武田の提案を受け入れたが、今や武田とその一党は株のロング・ショートと並ぶくらい稼ぐチームに成長していた。
因みに株の「ロング・ショート戦略」とは、株を保有する、売却するを組み合わせて利益を上げる手法で、保有していない株式を借りて売る「空売り」等のテクニックを駆使し、市場の趨勢を予測して、タイミングよく売り買いを実施する投資戦略だ。マーケットの動きに敏感で機動的に資金を投入できるヘッジファンドなどが駆使する手法である。
近年は伝統的な投資手法の資産運用会社でもロング・ショート部隊を組成して取り組んでいて、武田の所属するAGI投資でも外部から敏腕ファンドマネージャーを招いて積極的に取り組んでいた。
それとは逆に、武田の「伝統的債券投資」チームはエリート揃いでもなく、かといって一獲千金狙いのばくち打ちの集団でもなかった。そんなのは武田が要らないと一掃したからだ。もちろんサラリーマン・ファンド・マネージャーも平然と切ってきた。日ごろから儲からないけど真面目にやっている株のファンドマネージャーをこき下ろしている理由はそんなところにもあった。
のぞみも会社も知らなかったのは、武田が自分から嫌われる理由を作っておけば、やめる時は会社が慰留せず、サッと辞められるからだった。3年に1回の転職は自分の生き残り戦略に組み込まれていたから、日ごろから転職の際の余計なストレスがないよう予防線を張っているのだ。必ずしも全員から好かれていない、もっと言えば、敵がある程度いる状態にしているのだ。
副作用として、最も理解してほしい恋人ののぞみからは「どうしてそうなの?あなたは皆とは違うのよ、あなたが普通じゃないのよ」と毎回叱られるのだ。
女性として、自分の好きな人が皆からも好かれている「良い人」であって欲しいという心理だろう。皆から嫌われている人と付き合っているのは、女性としてはなかなか辛いものがあるのかもしれない。