見出し画像

月と六文銭・第二十一章(19)

アムネシアの記憶

 記憶とは過去の経験や取り入れた情報を一度脳内の貯蔵庫に保管し、のちにそれを思い出す機能のこと。
 武田は複雑かつ高度な計算を頭の中だけで計算できた。スーパーコンピューター並みの計算力ではあったが、それを実現するには記憶領域をある程度犠牲にしていた。

<前回までのあらすじ>
 武田は新しいアサインメント「冷蔵庫フリッジ作戦」に取り組むため、青森県に本拠を置く地方銀行・津軽銀行本店への訪問を決定した。津軽銀行がミーティングを快く受けてくれたおかげで武田は自分の隠された仕事の日程を固められた。
 総務の松沼和香子まつぬま・わかこは憧れの武田を出張へと無事に送り出したものの、体の疼きが収まらず、青森まで追いかけたい衝動に駆られ、業後に新幹線で追いかけようとまで考えるようになっていた。

19
 松沼は仕事が終わった後、東京駅に向かい、新幹線に飛び乗って青森まで行こうと考えていた。体の疼きに正直に応えないと頭がおかしくなりそうだったし、下半身が熱を帯びていて、その疼きは指での行為では収まらず、やはり本物の武田が欲しかった。

<武田部長に抱かれ、貫かれ、中に出してもらいたい!ああ、どうしてそんな遠くに行ってしまったの>

 きれいに拭かれ、淫らな指遊びの跡がなくなり、女陰も乾いてきたのに、松沼は冷静さを取り戻せずにいた。

<彼の部屋に押しかけて、上手く誘惑できなかったら、多分、クビよね。
 パパ活のことは会社にバレていなくて、あの件は「経理課長と不倫をしていた」ことになっているから、また社員に手を出したら、会社的にはアウトよね。
 あの時、私は譴責けんせきを受け、謹慎をしていたのは事実だし、武田はそのことを知っているから、会社に言うだろう。
 私は彼に迷惑を掛けたいわけじゃないから、そのまま会社を辞めることになるね。
 本当にそれでいいの?
 自分に興味があるかすら分からない男性に迫って、拒否されたら社会生活が終わりを迎えるリスクを冒してまで追いかけるべき男性か?
 もちろん当社では群を抜いて「持っている」側の人間だし、独身だから不倫にはならないし。
 え、私は何を言っているの?
 彼に相談して、二度と会社関係者と関係を持たないと誓ったはず。今度やったら社会的に二度と働けないようになってしまうとまで注意されたのに、親切にそう注意してくれた人を困らせようとしている。。。
 私がおかしいのよね、多分、どこかおかしいのよ。
 父親の愛情なしに育ったからファザコンなのか、年上の男性に魅力を感じる、いや、年上の男性にしか魅力を感じない私がいけないのよね>

 数度のエクスタシーで倦怠感が松沼を包んだ。やや重たく感じた体を便座から離し、身支度をして、個室を出た。
 机に戻り、業務をテキパキ片付けたが、30分に一回程度武田から預かった携帯電話をチェックし、何もないとちょっとがっかりして、画面を閉じ、自分の仕事に意識を戻した。

ブルッ
<あ、武田さんの携帯が震えた。メールかな?>

 電話を開け、キャリアの宣伝用メール「テキストA」だと確認できると松沼はがっかりした。

ブル、ブルッ
<今度は宣伝メールじゃないはず>

 松沼は画面を開いて、むむっとなった。内容は自分を呼び寄せるもので、武田は松沼と過ごしたいという内容だった。

TT:17:35の「はやぶさ」なら21時少し前に新青森に到着できる。
 津軽銀行との食事会は20:30まで。
 21時に僕の部屋で会おう。
 君は欲しいんでしょ、僕が?
WM:え、あの、行ってもいいんですか?
 あなたが欲しい!

 松沼が送信ボタンを押した瞬間、目の前でピーという音が連続して鳴った。彼女は、頭はマウスパッドにあったものの、左手がパソコンのキーボードのShiftボタンを押したままの状態だった。

はっ!
<いや、寝てしまっていた。普段ならこんなことないのに>

 そして、松沼は自分が入力したと思っていた内容のメールを武田の携帯電話の下書きか送信済みのフォルダにあると思って探したが、どちらにもなかった。

<あれ、送ったと思ったけど>

 次に松沼は受信箱を見たが、武田からのお誘いのメールもなかった。

<夢?夢だったの?アタシ、相当溜まっているのかしら、上司からのお誘いの幻を見るなんて>

「お先に!」

 専務秘書の遠藤がハンドバッグを肩に掛けながら通路を抜け、総務部の入り口を出ていった。親会社から出向で来ている川端専務は遠藤がいなければ立ち往生ばかりしてしまうでくの坊と揶揄されていたが、松沼も正直、遠藤はもっといい役員に付いた方が力を発揮できると思っていた。

<どうしよう。行きたいけど、迷惑を掛けたら、あの人は許すはずがない。フランクでいい人だけど、ルールは絶対守る人だし、私が相談した時は一歩も二歩も踏み込んでアドバイスしてくれた。本当は感謝して、忠実に守らないといけないのに、もっといけない方向に踏み出しそうになっている。
 この想いと体の疼き、どうしたらいいの?>

 松沼はもう一度丁寧に受信フォルダを見た。他人の携帯電話を覗くことなんてないから、フォルダの構造は分からず、写真などがどこのフォルダに格納されているか分からなかったが、会社支給のスマホだから、秘密のフォルダなどはないと結論して、受信フォルダを閉じた。

 業務時間が終了して10分ほど経っていた、どんなに急いでも東京駅17時35分発のはやぶさにはもう間に合わない。今夜、武田のところに行くのはどんどん難しくなっていた。いや、次の新幹線なら、まだ22時前に青森に着くことが可能なのだが…。

 松沼は一度ため息をついてから、自分のスマートフォンのスクリーンを捲って「メモ類」と名前にあるグループをタップし、開いたフォルダの中のアプリ・アイコンも数回めくって「奥の方」に隠してあったパパ活アプリをタップした。

<あのエロ医者なら、今の私を満足させてくれるかも>

 松沼はやり取りしているパパ達を順に画面の上に送り、目当ての医者を見つけた。一枚目は普通のプロフィール写真だったが、二枚目の写真はスポーツカーと一緒の彼、三枚目はヨットに乗る彼、四枚目は腕時計、五枚目はワイン、多分シャンパン、の写真で「お金持ちアピール」がひどかったが、その割には今のところ変なこと、無理な要求はしてこない点が良かった。基本的には彼をちやほやしてあげる限り、我が儘を聞いてくれる「良パパ」だった。

<そうそう、このKAZと名乗っているアラ還の医者>

 アラ還というのはアラウンド還暦(60歳前後)ということで、一時流行ったアラサー=アラウンド・サーティー(30歳前後)と同じような言葉の作りだった。

 松沼は松田幸まつだ・さちと名乗り、アプリでは「サチ」のハンドルを使っていた。以前勤めていた会社の身分証を変造・改ざんして今でも持っていたのは、万一ハンドバッグを開けられて身分証を見られてもそれっぽくごまかせるからだった。当時はサブとしてもう一台スマホを持っていて、連絡はそれで取るようにしていたし、ある意味「プロ」のパパ活女子だった。

サチ:お久しぶりです。
 今夜、お時間ありますか?
KAZ:お、サチさんか。
 新しい薬を手に入れたから、試してみるか?

<出た、クスリ系!>

 松沼は呆れながらも何か強いものがないとこの体の疼きは収まらないのを自覚していた。薬で脳を騙せたら、体の疼きも停まると思い、エロ医者・KAZこと戸山和幸とやま・かすゆきに身を任せるつもりでやり取りを続けた。

サチ:和幸さん、サチを思いっきり可愛がってくれますか?
KAZ:青いのを飲んでおくから、2時間くらいはできるぞ

<アタシには薬を飲ませて感度を高め、自分は勃起持続剤か。
 でも途中で元気がなくなったら嫌だから仕方がないか>

 勃起持続剤は、夫婦間のセックスはコミュニケーションの一部との扱いから欧米では医者の処方箋が貰えて、治療の一部と扱われる。しかし、日本では自然には勃たないエロジジイの不倫の道具扱いだ。
 戸山が「青いの」と言ったのは「ブルアグラ」のことだ。パイザー製薬が売り出したブルアグラは一世を風靡した青い勃起不全対処薬で、通称"青いヤツ"、或いは"青いピル"と呼ばれていた。全盛期には本物の数倍の量の偽物が世界中にはびこり、特許が切れてからは後発メーカーがジェネリックを投入して、市場が不安定化した。
 医者の戸山は正規品を入手して、若い娘との情事の際に使用、長時間勃起を維持させていた。もちろん、女性の方は長時間の挿入中に乾いてしまったり、そもそも疲れるので、不評だった。松沼は良く濡れたし、必要なら「潤滑剤を使って!」と躊躇なく言えたので、二人とも長時間の挿入を楽しめた。だから、戸山は「サチ」からの呼び出しにはすぐに応じることが多かった。

サポート、お願いします。いただきましたサポートは取材のために使用します。記事に反映していきますので、ぜひ!