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月と六文銭・第十九章(09)
鄭衛桑間:鄭と衛は春秋時代の王朝の名。両国の音楽は淫らなものであったため、国が滅んだとされている。桑間は衛の濮水のほとりの地名のこと。殷の紂王の作った淫靡な音楽のことも指す。
元アナウンサーの播本優香は久しぶりに本格的なデートが楽しめたようだった。子供へのお土産も武田が用意してくれていたことに喜びを隠せないでいた。
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播本はまだ気になっているようで、プラトレイン代について武田に質問していた。
「確かにお土産を貰って代金を聞く人はいないけれど、1500円のサブレとかではない金額だから」
「まぁ、次のデートを約束してくれるということで手を打ちましょう」
「はい!
今すぐは分からないし、電車の時間も迫っているから、電車に乗ってから送りますね」
「そうだね、後で調整しよう」
武田も軽く服を着て、播本を駅まで見送るつもりだった。
「え、いいですよ、せっかくリラックスしているのに」
「いや、君はコールガールじゃないでしょ?」
「ん、どういう意味ですか?」
「部屋に呼んで、することして、バイバイと送り出されるような女性ではないよね、という意味です」
「そんな風に思われたら悲しいわ」
「そうでしょ?
デートなんだから、別れる時は駅の改札で手を振るようにしなくちゃ、ね」
「なんか、ちょっと恥ずかしい気もするけど、哲也さんの気持ちは分かりました」
「よかった。
さぁ、急ぎましょう!」
「あ、本当だ!
間に合うかな?」
「大丈夫、行きましょう!」
バスに間に合うのは京浜急行で、ホテルからは近い方だったから、二人は全力疾走せずに済んだ。改札を通り、左端のエスカレーターに乗ったところで、播本は振り返り、手を振った。武田は改札の前で手を振ってニッコリ笑った。
武田が品川の駅の改札を入場し、列車に乗るために左に曲がっていく播本の背中を見つめていると、目の前の改札を通り、こちらに向かってくる白いコートの長身な女性がいた。
上田陶子はちょうどあんな感じのスタイルの女性だった。彼女は武田の数学的センスに惹かれたのであって、その後はユーモアと体の相性が良いことから不定期だが、継続的に逢瀬を楽しんでいた女性だった。
<そうだ、陶子はどうしているだろう?>
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ホテルの部屋に戻り、灯りを消して、カーテンを開けた。枕を立てて、それに背中を預けて、窓の外を見られる角度に座った。サイドテーブルには駅からの帰り道に購入した一目でわかるコーラの瓶を置いていた。
武田は頭の体操として、走り去る新幹線に乗っているターゲットを撃つには、どれくらい敏感なトリガーと初速何メートルの何口径の何グレインの弾丸を使用したらいいのか、計算してみた。
眼下を出発した新幹線がグングン加速して行くのを眺めていたら、サイドテーブルの携帯電話がブルっと震えて、画面に"メッセージが到着しました"と表示された。
<こんな時間に誰だろう?いや、そんなに遅くないか>
喜美香:こんばんは!
今夜、高輪とか、恵比寿とか、芝あたりに
泊まっていたりしませんか?
<ん?何だろう、急に>
TT:こんばんは!
ちょうど品川に一人でいますが…
喜美香:明日、新幹線で移動なんですが、
そこに泊めてもらえますか?
TT:いいですけど…
<いや、良くないだろ。急に泊りに来るなんて>
喜美香:荷物を持って移動しますが、
タクシーなので、30-40分程度で行けます
TT:いいですけど…
喜美香:どちらのホテルですか?
武田はちょっと戸惑った。
<播本との楽しい思い出を上書きされてしまうのだろうか?>
TT:高輪のノースウィングです。
喜美香:高輪セントラルホテルの北タワーですね
下の着いたらお電話します
<そうだ、一度一緒に泊まったことがある、ここ…>
TT:喜美香さん、泊るということは…
喜美香:うん、久しぶりにしましょう
TT:仕事の後で、少し疲れているのですが…
<珍しく言い訳をしてしまった>
喜美香:大丈夫です、私が元気にしますので
TT:分かりました
画面に既読の印が付いたが、喜美香からの返信はなかった。
武田は立ち上がり、コーラの瓶を持って窓辺まで行った。一気に飲み干すとそのまま瓶を窓辺において、バスルームに向かった。
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バスルームでは播本が使った歯ブラシがゴミ箱に捨ててあったが、それを拾い、半分ほど無くなっていた歯磨き粉の小型チューブと一緒にミニバーのゴミ箱に捨てた。ベッド周りを確認して、コンドームの入れ物やティッシュなどが残っていないか確認して、ベッドサイドのゴミ箱からゴミをミニバーのゴミ箱に移した。
フロントに電話して、バスローブ、歯磨きセット、タオル類を一式持ってくるよう依頼した。
思ったよりも早くスタッフが対応してくれて、武田はバスルームの備品を揃え直すことができた。日本での習慣はどうかは知らないが、スタッフに千円札を渡した。
そろそろかと思っていると、予想通りにメッセージが到着したと携帯電話の画面に表示された。
喜美香:そろそろ着きます
部屋は何番ですか?
TT:2711ですが、2階のフロントのフロアで合流しましょう
エレベーターが一旦2階のフロントのフロアで止まりますが、
カードキーがないとそれ以上上には行けませんので
喜美香:了解です
着きます
それでは2階で
TT:今から降りていきます
武田は播本を送りに行った時のまま、軽く服を着ていたので、そのまま予備のカードキーを持ち、部屋の壁に挿したものはそのままにして、部屋を出た。挿し込んだカードキーをそのままにしておかないと空調が止まってしまうのだ。武田はそれが嫌でチェックインしたら必ずカードキーを2枚発行してもらい、そのうち1枚は部屋の壁に挿しておくようにしていた。
武田が2階に着くと喜美香らしい女性がいなかった。いや、目の前にいるのだが、普段の喜美香からは想像できないいでたちだった。
「こんばんは!
急にすみません」
「いいえ。
ちょっとびっくりしたかな」
「しばらくぶりですものね」
「いや、そうではなくて…」
「この格好ですね。
すみません、移動用の恰好で。
お店には最終で移動すると伝えてあって。
部屋に入ったら、着替えさせてください」
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「新鮮ですね」
「そうですね。
自分の部屋にいても、ここまでカジュアルな服を着たことがないですよね、武田さんの前では」
「そのままジムに行けそうですよね」
「動きやすさを優先してしまいました」
「最終で大阪の予定だったのですか?」
「はい、仕事でミナミの取材です」
「面接ではなくて?」
「そうか!
雇ってくれるなら移籍もいいかも!」
「しないでしょ!」
「あはは、もちろん、よっぽど条件が良くなければ考えもしません。
今のママの下で働くのが一番ですから」
「ああ、鈴音ママは従業員思いですからね」
「本当に素敵な人です。
学ぶべきことが多くて、もうしばらくはママの下にいるつもりです」
「そうですか」
喜美香はニコニコしながら、さりげなく腕を組んできた。
「私、何か書かないといけないのかしら?」
「特にないよ」
「あら、どなたかと元々お泊りする予定だったのですか?」
「泊まるのは一人の予定だったけど、一応二人分で登録してあるよ」
「ふーん、まるで私が来るのを予想していたかのような」
「いや、広い部屋を使いたかっただけさ」
喜美香は武田の向いている方向をフロントデスクからエレベーターへと変更させた。
「あら、ごめんなさい、私が来たから狭くなってしまいますね」
「そんな狭い部屋じゃないから大丈夫ですよ」
「それなら、行きましょ!」
喜美香は武田を引くような押すような動きでエレベーターに向かった。武田は抗わず、エレベーターの前まで来て、エレベーターが来るのを待った。
来たエレベーターに乗り込み、ボタンの列の下にある黒いボックスにカードキーをかざし、27のボタンを押した。
「どうしてこの階なのですか?」
「窓からの夜景がちょうどいいからね」
「そうなんですか?
もう少し上の階の方がいいのではなくて?」
「まあ、見てのお楽しみということで」
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