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おばあちゃん戦争の話聞かせて

私は祖父母に育てられた。

とこう書くと、両親の愛情を受けていないみたいに聞こえるので両親に申し訳なくなる。そういうわけではなく、両親にももちろん大事に育ててもらったが、共働きの両親が仕事に行っている間、近くに住んでいた母方の祖父母がずっと面倒を見てくれたのである。私が10歳・小学4年生になるまで、祖父は私と弟を毎日車で迎えに来て、毎日送ってくれた。

祖父母は長野の人である。

戦後、祖父が神奈川県警の警察官になって神奈川にやってきたと聞いている。生まれ育った長野から二人で出てきて、ずっと横浜に住んだ人である。私が小学校4年になった時、祖父母は故郷の長野に家を建て、長野に帰っていった。それから亡くなるまでそこで暮らした。おばあちゃん子だった私は10歳までずっと祖母にくっついてどこへも行き、「おもしろい話聞かせて」とせがみ、一緒に料理をして、祖母の得意なミシンを習った。楽しかった。私はおばあちゃんが大好きだった。

「戦争の話聞かせて」

私は暇になるとよく祖母にねだった。はじめは「昔の話聞かせて」だったかもしれない。でもいろいろ聞かせてもらうと一番興味がわいたのが戦争の話だったから、いつも私は「ねえおばあちゃん、戦争の話きかせて」とねだった。祖母はよく戦争の話をしてくれた。

一方、祖父はほとんど戦争の話をしなかった。なぜか、聞くのが怖かった。無邪気に「聞かせて」と言ったとき「そんなおもしろい話じゃない」と断られたような気もする。終戦時21歳だった祖父は志願兵として兵隊に行っていた。家には軍服姿の祖父の写真があった。祖父の本棚には戦争に関連する本がたくさん並んでいた。

祖父が亡くなった時、私はあまり泣かなかった。おじいちゃんが私より先に死ぬのは当たり前と思っていたからだった。逆はあってはならないことだから、これでいいのだと思っていた。でも、葬儀(長野では「お斎(おとき)」と言って、葬儀の後にみんなで会食をする)の弔辞を聞いたとき、いちばんたくさん涙が出た。

祖父の小学校の同級生が弔辞を読んでいた。

「君と僕とは……」から始まる弔辞だった。そのおじいさんは祖父と小学校から同級だった。ともに剣道を習ってチームでは主将と副将を務めた間柄だった。当時は車もなく、子どももよく歩いたから、遠い道のりを二人歩いて交流試合に行き、最後の最後で負けてしまい、二人で悔し泣きしながらその道を歩いて帰ったことを、今でも覚えている、といった内容だった。

私があんなによく知っていた祖父なのに、それはほんの一部であって、私の知らない祖父の姿が、ここにいるすべての人の中にあるのだと思ったときに、ものすごくたくさん涙が出てきた。

人が本当に死ぬときは、その人を知る人がいなくなったときなんだと思った。

あのおじいさんが弔辞を読まなければ、小学校時代の祖父はもう消えてしまったはずだった。でも、弔辞を聞いた私が今、いるわけだから、まだ小学生の祖父がここにいる。

それで、私は、祖父母に聞いたことを、そろそろ書いておこうかなと考え始めた。20代になるまで私は断続的に祖母から戦争の話や戦後の混乱期の話をなるべくたくさん聞いたつもりだ。本当に小さな子どもの頃に聞いた話も混じっているから、もしかしたら私の自然な脚色が入っているかもしれないことは最初に断っておく。

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