祈るの意味
おはようございます。
今日は祈るとか願うの意味を考えてみました。
「祈ることになんの意味があるんやろ」
「祈ったところでなにも変わらんやろ」
そう思うこともありますよね。法事とかでも形だけ手を合わせて、形だけ焼香して。言葉には出さないですがそんな人も多いと思います。
私も僧侶として、このことに関して掘り下げてちゃんと向き合わないとなと思っているところです。
お寺にうまれて当たり前のように手を合わせて、お経を唱えたり…でもほんとに祈りの意味をわかってやっていたかというと疑問です。
空海さんだって、愛弟子を早くに亡くした経験もあるし、防ぎきれないことなんて絶対あるじゃないですか。祈祷のパワーをいまいち信じきれない自分がいました。
なので、この際ちょっと真剣に考えてみることにしたのです。
まず、「祈り」
多くの日本人にとってはお寺や神社での習わしだったり、願い事を叶えるための行為というイメージかなと思います。
では、本来の意味はなんなのでしょう。
私が思う祈りとは、心のそこから沸き起こる感情のひとつかなと思います。
明日遠足やから晴れてほしいーーー!!とかも祈りだと思いますし、
信心深くなくたって、合格発表の日とか行きの電車で思わず願ってますよね。
誰しも自発的に祈ったことがあると思います。
そういう祈りから神や仏に願うご祈祷まで様々だとは思いますが。
私の周りには、今重い病気と闘ってる人がいます。耐え難い困難に直面してる人がいます。私はただ私の周りの人たちがそういうつらさから抜け出せるように願うしかないという状況下にいます。
そういうこともあってちょっとこういう記事を書こうとおもったんです。
そんな時いつもなにもできない無力感に襲われます。と同時に自発的に沸き起こる祈りの気持ちが芽生えます。祈りっていったらいっちょまえすぎるんですけど、よくなってほしいな~とか、幸せでいてほしいなぁ~とかの気持ちです。
目の前の現実はいつも手に余る重さを感じるし出会った人それぞれ一人一人の人生があって、それぞれが抱える人生の重さ。かけがえのないものが自分の日常とは別に流れています。そうやって成り代わることのできないそれぞれの人生。
そういうのと向き合ってきたのが仏教(ほかの宗教もたぶん)だと思います。その仏教では祈ることの大切さを説いています。
でも、どうしても「祈ること」って無力に感じます。
実際、仏教は個は無力であって、大いなる宇宙の真理とか自然の偉大さを前になにもできないみたいなことも既に言ってます。でも、個もその大いなる宇宙の真理とか自然の一部であることにも違いないと。単独じゃなくて、一体化して考えようよって教えています。
この世の秩序を考えたときに、この世のものは放っておけば新しいものは古くなる、どんな丈夫な物でもいつかは朽ちていきますよね。
でも、調和調整していくことで、保っていけるのも事実です。
例えば道路でも点検して、改修工事して、安全な状態を保っているし、
自分の体で考えても、取り入れて排出して、常に入れ替わってるけど一定の個を維持しています。
そういう力というのもたしかに存在するのでその流れを利用して、循環と関わりを持つことで不可逆の力というか、不可避の力を逆転していけるのではないかということです。
そこには、自らの意思でなし得る努力が必要です。結局自分が動くことですね。
個の努力と、宇宙の真理との調和によって結果がかわるかもしれない。もちろんかわらないかもしれないけど。
でも、本当の調和を果たせた人の心には必ず祈り(心からの意思)があることも事実ですね。
何かを成し遂げるのに努力(行動)と祈り(心からの意思)は不可欠ということですね!
祈りだけによって事態が好転することはなけれども、祈りなくして本当の好転は難しいということです。
もしかしたら、私が祈ることで元気づけられた人の気持ちが好転して調和をもたらすかもしれない。
だったら祈る意味もちゃんとあるかも、なにもしないより動こう。そう思ったので、最近皆さんに良い調和がやってくるようにささやかですが読経したりして願っています。
皆に幸あれ!いやほんとに!!!
願っています!
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