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66 水遁と書いてウォータービジネスと読む

「水」のことなんて考えたこともなかった。水は水。喉が渇いたら水を飲む。蛇口をひねれば水は絶えずして、築50年近い我が家の水道管からは最初だけ少し錆が出るが、久しく留まりたる試しなし。3秒待てば元の水にあらず。
 若い頃は痩せっぽちだったので、あまり汗をかくこともなく、ごくまれに喉が乾けば、台所でコップに水を注いで飲む程度。自分が口にしている水の「質」なんて気にしない。煮沸する必要もなく水道水がそのまま飲める日本という国は、世界でも稀な存在なのだということは、ずいぶん後になってから知った。水道水を嫌い、料理はともかく、飲料水はわざわざミネラルウォーターを購入する人がいるというのも、大人になってから理解した。
 齢をとってから少し太り、体型の変化に伴ってよく汗をかくようになり、いまは出先でちょいちょい水を買う。銘柄にこだわりはない。硬水? 軟水? どっちでもいい。JR駅ホームの自販機で売られている「ペットボトルの蓋がつながったタイプ」は嫌いなので、それ以外のものを選ぶ。

 フリーライターをやっていて、あちこちの出版社に出入りしていると、ときどきオフィスの片隅にウォーターサーバーがあるのを見かける。水道水で育ったぼくは味の違いなどわからないが、汚いよりは綺麗な方がいいのは道理なので、喉か乾けば一杯もらう。
「ウォータービジネス」という言葉は、元々は「夜の店=水商売」をお洒落に言い換えたのが語源だと思うが、いまはウォーターサーバーのレンタル事業などを指す言葉として定着した。今風の言い方をすれば「水のサブスク」といったところだろうか。

 あれは、2009年12月のある日のことだ。
 ぼくは都内での仕事を終えて、自宅のある松戸に帰ってきた。すると、駅前広場に何やら人だかりができているではないか。見ると特設ステージが設営されていて、その上では美脚をむき出しにした数人の女の子が歌い踊っていた。
 最初は赤いミニスカワンピースにゴールドのマント。次にくノ一(くのいち)忍者風の衣装で腰には刀。さらにはサンタクロースの衣装というように、何度か衣装をチェンジする。バックには「クリスマスイベント桜組」とあり、この「桜組」というのがグループ名なのだろう。
 知らん。ぜんぜん知らん。
 元芸能ライターで、すでにその分野から手を引いたとはいえ、人並み以上にはアイドルに詳しいつもりのぼくでも、聞いたことがない名前だった。
 脇に停めてあるマイクロバスがこの子らの移動車のようで、デカデカとした「桜組」という看板の他に、キャピタルプロダクション(事務所名)、キングレコード(レコード会社)、『忍者でござる』(デビュー曲)などが書かれていた。
 そこまではわかる。けれどよくわからないのは、クルマの屋根に「中国人双子 桜紅丸・桜蘭丸」と書かれていたことだ。
 ステージ上で歌っているのは5人組。では、桜紅丸と桜蘭丸はこのあと登場するのだろうか? しかし、その様子はない。ということは、紅丸&蘭丸もあの5人に含まれているのだろうか?
 帰宅してからいろいろ検索したところ、桜組誕生のだいたいの経緯がわかった。

・中国に楊玲(ヤンリン)と楊晶(ヤンジン)という双子の姉妹がいた。
・女子十二楽坊の妹分として、J&L ANGELS(晶玲組合)の名でデビューする。
・日本企業のキャピタルプロダクションにスカウトされ、ヤンリン&ヤンジンとして来日。
・その後、ヤンリンとヤンジンは4人組アイドルユニット「桜組」の一員に組み込まれてデビュー。
・その際に、他メンバーの名に合わせて楊玲は桜紅丸、楊晶は桜蘭丸に改名。
・桜組のコンセプトは忍者。すなわち彼女らは忍ドルとして売り出されていたのだ。

 ぼくが駅前で目撃したときは5人組だったから、メンバーの増加を図るなど売り方に迷走していたのだろう。結局、桜組は2010年に解散し、紅丸と蘭丸はまた二人に戻って「BENYLAN」というコンビ名に改名して活動を続けていたが、二人のブログの更新は2014年4月3日を最後に途絶えている。
 中国人の双子が日本に連れてこられて、忍者の扮装で歌わされるというのは、香港出身の双子が日本に連れてこられてインディアンの扮装をされられていたリンリン・ランランを彷彿とさせる。なんとも切ない話である。
 で、なんでこんな「水」とは関係ない話を延々と書いているかというと、彼女らを日本に連れてきたキャピタルプロダクションの西山由之社長は別会社株式会社ナックの会長で、そこはミネラルウォーターの製造販売業を営んでいるからだ。ぼくが目撃した駅前イベントも、そのナックが展開する「クリクラの水」というミネラルウォーターのプロモーションの一環で、イベントの後半では西山社長自らステージに立って、クリクラの水を宣伝しておられたのだった。ぼくはまるで水遁の術にかけられたような気分で、その場を立ち去った──。

 この翌年の2010年。ぼくは長年の深酒と乱れた食生活が祟って、痛風を発症する。痛風を改善する方法はいくつかあるが、いちばん簡単で効果があるのは水を飲むことだ。水をガンガン飲んで、尿をドバドバ出して尿酸値を下げる。医者からは「毎日2リットル飲め」と言われた。閻魔様か。
 パナソニックが調べたところによると、水のうまい都道府県ランキング、堂々の1位は鳥取県だという。そんなバカな。あそこは面積の半分を砂漠が占めてるんじゃなかったのか。
 そして2位は富山県、3位は新潟県、4位は山梨県、5位は長野県と続く。これが妥当なのかどうかはよくわからない。東北地方が上位に来ないのは意外な気がする。
 我が千葉県は何位かというと……47都道府県のうち46位だそうだ。コンチクショー、言われなくてもわかってる。毎日サビ味のする水を飲んでるんだからな。それでもぼくは水を飲む。尿をたくさん生産して尿酸を洗い流さんとするために。

 痛風は世の常である。水にまかせて、尿酸上手に、雑魚は歌い雑魚は踊る。けれど誰か知ろう、百尺下の水の心を。水のふかさを。

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