曲に合わせて歩く人


私は音楽が好きで、音楽に身を任せるのが好きだ。

そんな私には、人には言ってこなかったイチ押しの音楽の楽しみ方というのがある。
端的に言えば、「音楽に身を任せる」というのを文字通り実践するものだ。

どうやるの?と言われると、返答に困る。なぜなら、どうやるのも何も、やることは文字通り、全くもってそのままであるからだ。
音楽に身を任せるのを実践するということはつまり、音楽のテンポに合わせて歩くこと、ただそれだけなのである。

それでは、音楽のテンポに合わせて歩くということはどういう事なのか。
実感が湧かない諸君には是非読んで興味を持っていただきたい。


初級編として有用なのは、エルヴィス・プレスリーの「好きにならずにいられない」あたりだろうか。

思わずうっとりしてしまうような甘い歌詞と、口ずさみたくなる歌いやすさが気分を高めてくれる。そして何より、彼の心地良い低音がゆったりと流れてくる様は、身を任せるのにもってこいなのだ。
テンポは決して早くないが、急いでいない時はこの曲のテンポに合わせ歩くと、現代人としての忙しなさを忘れて、自分の世界に浸ることが出来る。まもなく諸君は身を任せることの意味や意義、その真髄を理解することになる。

電車を一本逃しても良いじゃないか。
一度このテンポに慣れてしまうと気持ち良すぎて、ホームを走ったり、ぶつかりそうな勢いで改札を通ることが馬鹿らしく思えるだろう。
その上、この曲の使い手ともなると、このテンポで歩くために、早め早めの行動を心がけるようになり、かえって遅刻が減るのではないかと思う。
要は、この曲に身を任せると良い事づくしなのだ。

ただ、忠告しておくが、エルヴィスの声に合わせて歩くと、結構歩みは遅くなる。
私はこの曲を使う時は大抵大股で歩くし、そうでなくては改札の前で足踏みすることになる。
初心者はこの曲のテンポが遅めであることに留意して、本当に急いでいる時は使用を避けることを勧めたい。


先ほどはつい初級編と銘打ったが、初級編があるからと言って中級編や上級編を用意している訳ではない。
これはあくまで自分の好きな曲に合わせて歩くことを目的とする手法のススメなのであって、ここは私の趣味を押し付ける場ではないからだ。

ただ、なぜこの話を書こうと思ったのかの説明のために、もう二曲ほど紹介させて欲しい。

まず、こちら。

載せたのは一般的ではないチェロでの演奏だが、これはとてもおすすめ。
なお、この演奏家と2CELLOSとしてタッグを組んでいるもう一人の演奏家のものも最高にかっこいいので下に載せておこう。
この二人のチェリストは個々での演奏はもちろん、2CELLOSとしての演奏も全てとても気持ちよく聴かせてくれるのでかなりおすすめだ。


また、デイヴィッド・ギャレット「フリー」に収録されているヴァージョンはとても盛り上がる。
ここでついでに、私が贔屓にしているヴァイオリニスト、David Garrettを紹介したいのも山々なのだが、語ると長くなるので割愛する。

さあ、本題に戻るが、ここで取り上げたのは、言はずもがな、イタリアの作曲家、Vittorio Montiの作品、Csárdásである。

さて、この曲。
特徴的なのはその極端さにある。
歌うように聴かせ、哀愁を漂わせながら伸びやか(4分の4拍子)に始まり、急にスピードが跳ね上がって16分音符が続く。鮮やかなほど見事に緩急がついていて、テンポがぱっくり分かれるのが非常に魅力的だ。

これに合わせるとどういうことになるのか、もう多くの読み手は想像がついていることだろう。

まず、私は電車から降りたら直ぐにこの曲を再生する。
ゆっくりまったり、切ない表情を忘れずに、ホームに向かうエスカレーターへと歩みを進める。すると、つい虚空を見つめたくなるような時間が続き、気が付けばちょうどエスカレーターの終わりに差し掛かる。
急に始まるテンポに合わせ、前の人を追い抜いて、人混みを縫って改札を目指す。ゆっくりとしたテンポに身を任せていると、曲のテンポが変わるのはきっと思っているより急だが、焦ってはならないし、ダッシュは禁物。あくまで早歩きが鉄則だ。
なんだか急に改札や駅の出口に向けてタイムを測っているような、周りと競争しているような気持ちになるが、それは正しい反応である。完全にテンポが移行したら思う存分暴れるがいい。

とまあ、これがこの曲の楽しいところであり難儀なところでもある。
例えばエスカレーターに乗ってる途中で曲のテンポが移行したら、瞬時に右側(関西では左側)に移ってエスカレーターを階段のように駆け上がる羽目になる。
ラッシュ時は人の波が押し寄せてくるので人の靴を踏んでしまわないように必死だ。
だが、臨機応変に対応する能力と、周りをよくみて行動する力が培われる点で、得るものも大きいと推奨しておこう。

この曲の場合は、音楽(のテンポ)に身を任せてしまっても、ゆっくり歩いていた人が理由もなく急に急ぎ出す現象を発生させるだけに過ぎない。
電車が来ている訳でも信号が変わりそうになっている訳でもないのに早足になるのは、確かに、周りから少々奇異な眼で見られる場合もある。しかし、職場や大学構内など、知っている人に見られるリスクのある場所を避ければ大した問題はない。
重要なのは、如何に楽しむか、その一点に尽きる。


最後にもう一曲紹介するとしよう。
これこそが問題の一曲だ。

Claudio Abbadoの指揮は気持ちの良いほどストレートな印象を受ける。


そして、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 & ヘルベルト・フォン・カラヤン「ブラームス:ハンガリー舞曲集、ドヴォルザーク:スラヴ舞曲集」に収録されているものは、私が思うに、間違いなく最高峰のハンガリー舞曲のうちの一つ。
家にあったクラシック曲の多くがKarajan指揮のアルバムだったこともあるのか、カラヤンへの思い入れは並みのものではないと思う。彼の生家を訪れた際にちょっと泣きそうになるくらいには、私はカラヤンが好きである。
おっといけない、また趣旨とずれていく所だった。音楽について語るのはまた後日としよう。

さて、こちらも殆どの人が聴いたことのある曲だと思う。
ブラームスが編曲したハンガリー舞曲は全部で21曲あるが、恐らく一番有名なのが、この第5番だ。

軽快なテンポで進んでいくが、先の曲との決定的違いは、最初から最後までテンポが速いことだろう。そして、ただ速いだけかといえばそうではない。
この曲には速さの中に明確な強弱と流れがある。
それを掴むともっと楽しくなってくるので、テンポに合わせて歩くことが音楽への愛着を強めてくれることを実感するだろう。

私は大学時代これを聴いて登校していた。もちろん、ただ聴くだけではなく、テンポも合わせて歩いていた。
基本的には、家を出るのが遅くなって講義に遅れそうになる時(大抵は一限に講義がある時)に、この曲に合わせて教室を目指していたのである。
さあ、何が起こったか。

私は、完全にその空間から浮いていたと回想する。
その時は無自覚であったが、確実にあれは不審者の扱いであっただろうし、通行人から遠巻きにされていたと思われる。

ただ早歩きしていたり走ったりしている人と何が決定的に違うのか。
それは当然、テンポに合わせているかどうか、なのだが、ノリノリで歩いたり走ったりすると、どうやら普通よりも顔つきが違ったり、異様な雰囲気を纏っているものらしい。
ある時学友に発見された私はそうした指摘を受けて事なきを得たが、楽しみを覚えた人間は簡単にその刺激や快楽を手放さないものだ。私は諦めなかった。
結局、私が培ったのは、「一般的なこと」を理解する力ではなく、如何に「一般的」に擬態するか、である。
今ももちろん音楽に身を任せているし、擬態の精度が上がったことによりいつでも楽しめるようになった。ただ、時々コントロールを失って擬態をするのを忘れ、のめり込むこともある(但し、深夜の帰宅時などに限る。)のが欠点だが。

とは言え、なんと言ってもやりすぎなければ心に優しいのがオススメポイントだ。
怖がらずに試してみると、大袈裟ではなく世界が違って見えることだろう。

最近は、これが私なりの楽しい人生の送り方かもしれないと思っている。
だが、きっと、今日まで沢山の人に迷惑をかけてきたことをここで改めて懺悔すべきことは免れない。



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