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可哀想に思っていいんだよ。

「辛いことがあると偉いのか? 辛いことがあって辛抱してると偉いのか? 俺なら辛くないようにするけどな…」
「ああ・・人が泣くのには二つあるんだなって思った・・・自分が可哀想で泣くのと ただ もう悲しいのと・・・自分が可哀想で泣くのはさ ガキの涙だよ」
小野不由美「十二国記」より

今日この言葉を辛い病気に苦しんでいる子が、「好きな言葉なのだ」と言っていた。
いい言葉だな、って思う。
人間いつまでも「私がいちばん辛い」と泣いて生きていられるほど世の中は甘くない。

だけどちょっと待ってよ、「待ってよ」
辛いことがあってそれは辛くないのだと、私は普通だ元気だと、言いながら体にいいきかせながら歩いていっていたのは、それは昔の私だ。
「他の人のが大変だ、つらいのだ、だから私の心はなんでもない」呪文を唱えながら歩いていって、ある日文字通り世界が捉えられなくなって倒れた。
メニエール病から本当はうつ病だと診断されたでは無いか。

「何でもなくなかったのだ、本当は」
後日、自分の受けた傷を人に話した時に私は笑っていたのに相手が泣き出してしまったのを見てやっとわかった。人が自分のために流してくれる涙はびっくりするくらい大きくて丸くて、とにかくビックリして考えた。
「本当は色んなことがあって、諦めたり傷ついたりする度にうずくまって泣くべきだったのかも」
「それを無いものにして、笑って誤魔化して起こりもせず泣きもせず流してきたから病気になったのでは?」
「確かにそんな時間はなかった。でも間違っていたのでは?」

そこから色々無い頭を搾って考えたのがこれだ。
「いつまでも、自分が可哀想と泣くのは気持ちいいし、楽だ。だがそれに浸っていてはいけない」
「でも、自分のつらさを右に左になぎ払いながら進めば何時かは心を蝕まれる」

それで、だ。
「自分の中にこれは嫌、これはいい、許す」のラインを引く→
「ラインを超えたら泣く、怒る、自分を無いものにしない」→
「ある程度泣いて、苦しんで、叫んで暴れたら」「静かに考える」→「立ち上がって埃を払い、また顔を上げて歩こう」

自他境界といい、怒りと許しといい、我々アダルトチルドレンは線を引くのに苦労してばかりだ。
でも「自分を大切にして、結果怒ったとき」
とてもいい気持ちになれた。
生まれて初めての感覚だが「あ、自分が喜んでるな」とわかった気がした時だったし同じ境遇で育った姉に話した時も「良かった良かった」と言い合うことができた。

好きじゃない聖書の言葉を引っ張り出すのもアレだが「話すのに時があり、泣くことに時があり、売るのに時があり、買うのに時があり、全てのことには時がある。」ということなのだろう。

「病んでる、傷ついてる自分をいたわるのはダサい」そんな風潮もあるが、後にしっぺ返しを食らうのは「ダサい」と笑う人じゃない。「痛くない、病んでない」と笑っていた自分の方だ。

だから、「可哀想だよー、自分辛いよー、世界一酷い目にあったよー」と泣いたっていい
騒いでもいい、人に迷惑をかけなければ、いや少しは迷惑かけたっていい。
クールなふりはもうしなくていいのだ。

泣いて怒って暴れて、立ち上がって歩いていこう。

人間にはそれが必要だ。


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